クオリア

取り柄無し

クオリア

 あなたは自分の顔を知っていますか?

 

 きっかけは何気ないことでした。友人と何かを食べた時、見た時、同じものに対しての評価が違うことがあるでしょう? 私は「おいしい」と思っても、友人は「まずい」と言う。「いい匂い」と思っても「キツイ」とか、そんなことです。


 そこでふと、この認知というのは確かなのか考え始めました。先の例でいえば、本当に同じ味・同じモノを認知しているのかということです。少し考えてみると分かりますが、これは確かめようがないのではないでしょうか。色覚異常が先天性であった場合、自覚に至ることが難しいように。自分と他人の認知は交換出来ないものでしょう。例えば、自分がネコに見えたとして、友人はそこにイヌを見ているのかもしれないのです。


 そもそも、我々はどうやってモノを認識しているのでしょうか。人には様々な感覚分類があると言われていますが、代表的なものは「五感」でしょう。通常、それらは神経によって送られたシグナルで、脳で処理をしています。では、もしその脳に異常があったら、どうなってしまうのでしょうか。また、直感はたびたび嘘を吐きます。錯視、錯覚アートがあるように。


 少し話を戻しますが、自分の顔というのも不確かなものです。あるいは── 私が思っている「私」という存在すら、どこまで確かなものなのでしょうか。


 私は自分の顔を知っているつもりですが、鏡に写った顔や写真に撮った顔しか見たことがありません。要は、鏡やカメラ、他人の目などの一種のフィルターを通さない限りは見ることができないのです。


 くどくなりましたが、詰まる所私が言いたいのは、身近な存在である自分自身の顔でさえ一生見ることがないということです。


 このことに気づいてから、私は「自分の顔」について屡々考えるようになりました。私たちは日々、鏡に映る自分の顔を見ています。しかし、その顔は本当に“自分の顔”でしょうか。鏡に映る像は左右反転し、光の加減や鏡の質にも左右されます。カメラで撮った顔もまた、レンズの歪みや照明、表情のタイミングに影響される。では、「他人が見ている私の顔」は、一体どれだけ自分の想像に近いものなのでしょうか。


 この顔が自分のものであるという確信すら、脳という“フィルター”を通した幻想に過ぎないのでしょうか?


 そう考え出すと、すべてが不確かに思えてきました。


 味も、匂いも、音も、そして顔も。


 あなたは自分の顔を知っていますか?



***



 昼下がり。

 傷害の容疑で連行された不審者を詰問していた八木は絶句した。


 大学病院に闖入し、警備員に取り押さえられ、先程この取調室に連れてこられた佐藤と名乗る男。その男が虚空に向かって喋る内容を彼は呆然と聞くことしか出来なかった。


 佐藤の言動は支離滅裂に思えるが、しかし、何か真理めいたロジックをも感じさせる。


 もしかすると顔なんてものは元々存在しておらず、ただ、自分が見たいものをそこに見ているだけに過ぎないのかも知れない。そして、それに気づいた時、その人はそこに何を見ることになるのか。


 ただの妄言と切り捨てることも出来たが、そう話す佐藤の顔は靄がかかったように歪曲していて、これは疲労のせいなのか、はたまた…

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クオリア 取り柄無し @Omame_23

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