第3話:数学公式は「覚えるな、友達になれ!」

 七月も半ばを過ぎ、カレンダーの数字が夏休みの接近を告げる頃になると、太陽はその慎ましやかな美徳を完全に放棄したようだった。空の彼方から降り注ぐのは、もはや慈愛に満ちた光などではない。それは、地上に生きるあらゆる有機物を根絶やしにせんとする、純粋で暴力的な熱エネルギーの奔流だった。


 朝の八時。本来であれば、まだ清涼な空気が残っていてもおかしくはない時間帯だ。しかし、世界はすでに沸点に達していた。

 通学路のアスファルトは、夜の間に蓄えた熱を吐き出し、ゆらゆらと立ち昇る陽炎かげろうが視界の輪郭を不気味に歪ませている。遠くに見える信号機や街路樹が、まるで水彩画に水を垂らしたように滲み、揺らめいていた。世界全体が、神という名の無慈悲な料理人が操る巨大なフライパンの上に乗せられ、じゅうじゅうと音を立てて焼かれている。そんな妄想すら、あながち嘘とは思えないほどの熱気だった。


 時折吹く風に、救いを求めてはならない。その風は、どこか遠くの涼しい場所から吹いてくるのではない。熱せられたコンクリートと室外機の排熱をたっぷりと吸い込み、ドライヤーの「強」モードの温風を至近距離から顔面に叩きつけてくる拷問官トーメンターへと成り下がっていたからだ。頬を撫でる風はねっとりと重く、肌にまとわりつく湿気は、着ているシャツを瞬く間に背中に張り付かせた。


 夏休みを目前に控えた学校という箱庭は、巨大な蒸し風呂と化していた。教室の天井で回る扇風機は、生ぬるい空気をただ撹拌かくはんするだけで、生徒たちの熱気を冷ますにはあまりに無力だった。教師の単調な声が響く中、生徒たちの集中力は、真夏のアスファルトに落としたアイスクリームのように、どろどろに溶け出し、形を失っていた。


 そんな、思考さえも蒸発しそうな灼熱地獄の最中、俺、佐々木健太の日常には、ある一つの奇妙な習慣が加わっていた。それは、この茹だるような暑さへの対抗策でもなければ、涼を求めての逃避でもない。むしろ、自ら進んでさらなる苦行に身を投じるような、実に怪しげな儀式であった。


   *


 一日三十分。俺は自室に籠城ろうじょうする。

 部屋のエアコンの設定温度をいくら下げても、西日の当たる俺の部屋はサウナのような熱気を保っている。その中で、俺は耳全体を覆う密閉型のヘッドホンを装着するのだ。合皮のイヤーパッドが耳の周りの皮膚に吸い付き、じわりと汗が滲むのを感じる。その不快感を無視して、俺は再生ボタンを押す。


 流れてくるのは、英語の音声だ。

 俺は、聞こえてくる音声を、影のように追いかけて口に出す「シャドーイング」という修行に没頭していた。


「あ、あい はぶ びーん とぅ ろんどん とぅわいす……(I have been to London twice...)」


「いっと いず わん おぶ ざ もすと えきさいてぃんぐ してぃーず……(It is one of the most exciting cities...)」


 自分の口から出る音は、どこか頼りなく、そして滑稽だった。ヘッドホンをしているせいで、自分の声は骨伝導で頭蓋骨に直接響き、くぐもった奇妙な低音として認識される。舌は思うように回らず、"th"の発音をするたびに唾が飛びそうになり、"r"と"l"の違いを意識するあまり、喉の奥が引きつるような感覚に襲われる。


 意味も分からぬ異国の呪文スペルを、ひたすら唱え続ける俺。

 その姿は、端から見れば狂気じみているに違いない。


 薄い壁一枚隔てた廊下からは、母親の困惑した声が漏れ聞こえてくる。

「健太、あんたまた変な宗教にでも入ったの? 部屋からブツブツ変な声が聞こえるんだけど……」

 その声には、本気で息子の精神状態を危ぶむ響きと、ご近所に聞こえていないかを気にする世間体が半々に混じっていた。


 弟に至ってはもっと露骨だ。予告もなく部屋のドアが数センチだけ開く。隙間から冷ややかな視線と、嘲笑を含んだ眼球が覗く。

「ウケる」

 たった一言。感情の乗っていない、しかし的確に俺の羞恥心をえぐる言葉を残し、パタンとドアが閉まる。足音が遠ざかっていくのを聞きながら、俺は赤面し、ヘッドホンを握りしめる。


 自分でも、一体何をやっているんだろう、と冷静に考えてしまう瞬間は、一日に五回くらいある。

 ヘッドホンを投げ出し、ベッドにダイブして、「もうやめだ!」と叫びたくなる衝動に駆られる。汗ばんだシャツが気持ち悪い。喉が渇く。こんなことをして何になる。


 だが、不思議なことに、俺はその衝動をぐっと飲み込み、再び再生ボタンを押すのだ。

 あの図書館のぬし、いつも眠たげな目で新聞を読んでいる司書の田村さんが言ったことは、嘘ではなかったからだ。

『騙されたと思ってやってみろ。音は、ある日突然、言葉に変わる』


 毎日毎日、来る日も来る日も、同じ音声を聴き、猿のように真似をし続けていると、変化は確かに起き始めていた。

 それは、霧が晴れるような劇的なものではなく、薄紙を一枚ずつ剥ぐような、微細な変化だった。

 あれほど無意味な雑音の羅列、あるいは早回しの読経にしか聞こえなかった英語が、少しずつ、意味を持った「塊」として耳の鼓膜を震わせるようになってきたのだ。


 以前は、センテンスの最初の単語を聞き取ろうとしてつまずき、その後の音が全て濁流のように通り過ぎてしまっていた。しかし今では、なんとか一文の終わりまで、意識を並走させることができる。

「あ、今、"exciting"って言ったな」

「ここは過去形だったな」

 そんな感覚が、脳内のシナプスをピリリと刺激する。


 これは、俺にとってはコロンブスがアメリカ大陸を発見したのに等しい、とんでもない大躍進だった。未知の荒野に、最初の一歩を踏み出した高揚感。

 まあ、厳密に言えば、その大陸に上陸したところで、現地の言葉はまだ通じないし、文化も理解できていないのだが。


 ほんの少しの進歩。

 それは、漆黒の闇が広がる巨大な洞窟の中で、ようやく一本のマッチを擦ることができたようなものだ。

 しゅっ、という音と共に灯った、小さく揺らめくオレンジ色の炎。それは、確かに周囲を照らす「ささやかな希望の光」だった。


 だが、その頼りない光は、同時に残酷な現実をも照らし出した。

 マッチの明かりが届いたその先。俺の目の前にそびえ立っていたのは、英語という丘陵など比較にならないほど巨大で、冷徹で、凶悪な絶壁の姿だった。


 その絶壁の名は、「数学」という。


   *


 夏休みを目前に控え、学校から「夏休みの友」ならぬ「夏休みの敵」が配布された。

 その中でも一際異彩を放っていたのが、分厚い数学の問題集だ。

 手に持った瞬間、ずしりと手首に負担がかかるその重量感。その厚さは、もはや学習教材というよりは、護身用の鈍器ウェポンと呼んでも差し支えないレベルだ。枕にすれば高すぎて首を痛めるだろうし、鍋敷きにするには分厚すぎる。


 表紙には、高原のような爽やかな背景に、白い歯を見せて笑う男女のイラストが描かれている。彼らはノートを広げ、何やら楽しそうに談笑しているが、これは完全に、悪質な詐欺である。

 ページをめくれば、そこに広がっているのは、爽やかさの欠片もない世界だ。数字と記号、そして無機質な直線と曲線がびっしりと詰まった、地獄への片道切符。インクの匂いさえ、どこか鼻につく刺激臭に感じられる。


 夏休み初日。

 セミの声が狂ったように響き渡る午前中。俺は、英語で得た「やればできるかもしれない」という小さな自信という名の盾を胸に、この数学ラスボスに挑むことにした。


 最初の数ページ。

 一次関数や連立方程式。

 y = ax + b。

 2x + 3y = 10。

 ふむ、懐かしい。中一、中二の頃の俺は、まだこの世界で呼吸ができていた。記憶の彼方に埋もれていた解法を掘り起こし、答えのページをチラチラと盗み見しながらも、なんとか鉛筆を走らせることができる。

 シャープペンの芯が紙を擦る、カツカツという音が心地よい。


「いける……! 俺、いけるぞ!」


 数学の神様が、ついに俺に微笑み始めたのかもしれない。冷房の効いていない部屋の暑ささえ、心地よい達成感の熱さに変換されていくような錯覚。

 だが、その微笑みは、慈愛に満ちた女神のものではなく、路地裏で獲物を追い詰めたヤクザが浮かべる、嗜虐的な笑みと同じ種類のものであることに、俺はまだ気づいていなかった。


   *


 問題集が中盤に差し掛かったあたりで、部屋の空気は一変した。

 まるで気圧が急激に下がったかのように、俺の周囲から酸素が薄くなった気がした。


 平方根。

 √(ルート)とかいう、屋根のような、あるいは鎌のような記号をつけた、いかにも性格の悪そうな数字たちが現れたのだ。

「二乗して a になる数を、√a と書く」

 教科書の説明はシンプルだが、こいつらの挙動は不可解極まりない。二乗しないと屋根から出てこられないという、極度の引きこもり体質。有理数だの無理数だの、自分たちのアイデンティティについて複雑な派閥争いをしている。

 √2、√3……。終わりのない小数の羅列。割り切れないその存在が、俺の几帳面な部分(勉強以外では発揮されないが)を逆撫でする。

 面倒くさいこと、この上ない。


 そして、間髪入れずに襲来する二次関数。

 放物線。ボールを投げた時の軌跡のような、滑らかな曲線を描くグラフ。

 x と y 。

 本来、アルファベットというものは、英語の教科書の中にいる時は、まだコミュニケーションの道具として俺の味方だった。

 だが、ひとたび数学の問題集という戦場に現れた途端、彼らは突如として裏切り、得体の知れない「変数」という名の怪物となって俺に襲いかかってくる。

 y = ax² 。

 x が増えれば増えるほど、y は加速的に巨大化していく。その急激な変化に、俺の思考速度は全く追いつけない。


 極め付けは、「二次方程式の応用問題」という名の、魔王軍の総大将だった。


『横の長さが縦の長さより4cm長く、面積が96cm²の長方形があります。この長方形の縦の長さを求めなさい』


 ……知るか。


 俺の心の奥底から、ドス黒い感情が噴出した。

 そんなもん、メジャーで測れよ。ホームセンターに行けば百円で売ってるだろ。

 なぜ俺が、たかが長方形のサイズを知るために、日本語の文章から数式という暗号を組み立て、面倒な計算という労働を強いられなければならないのだ。

 俺は長方形職人でもなければ、土地家屋調査士でもない。ただの、夏休みを謳歌したい中学生だ。


 俺の脳は、この文章を理解し、数式に翻訳することを、開始〇・二秒で完全に放棄した。

 頭の中で、何かが焼き切れる音がした。ぷつん、という乾いた音と共に、思考回路から白煙が上がったのが見えた気がした。

 シャープペンを持つ手が止まる。掌から滲み出た汗で、グリップがぬるりと滑る。

 視界がぼやけ、数字たちが紙の上で勝手にダンスを踊り始める。


 それでも、課題は提出しなければならない。夏休み明けに、担任の冷たい視線に晒されるのだけは避けたかった。

 俺は、プライドも何もかもかなぐり捨て、禁断の書である「解答・解説」のページを、震える指で開いた。


 そこには、流れるような美しい数式と、丁寧すぎるほどの解説が、整然と印字されている。


『縦の長さを x cm とすると、横の長さは (x+4) cm と表せる。長方形の面積は(縦)×(横)なので、 x(x+4) = 96 という式が成り立つ。これを整理すると、 x² + 4x - 96 = 0 となる。この二次方程式を解くと……』


 待て。待ってくれ。

 俺の動体視力では追えない速度で話が進んでいる。


 なぜ、そこで突然その式が出てくる?

 俺の脳内では、「縦の長さ」という概念と「x」という文字が、まだ名刺交換すら済ませていない。互いに距離を測りかねてお見合いをしている状態だ。

 だというのに、物語は俺を置き去りにして、すでにクライマックスの計算パートに突入している。

 まるで、映画の冒頭十分を見逃して映画館に入ったら、いきなりラスボスとの決戦シーンを見せられているような気分だった。文脈が分からない。感情移入ができない。


 解説を読んでも、分からないものは分からない。

「整理すると」ってなんだ。誰がどう整理したらそうなるんだ。

 俺は結局、思考することをやめた。

 そこに書かれている数式を、一文字たりとも間違えないように、そのままノートに書き写す作業へと移行した。


 x(x+4) = 96

 x² + 4x - 96 = 0

 (x + 12)(x - 8) = 0


 まるで、意味もわからずありがたいお経を書き写す修行僧のように。

 ペンの運びだけは滑らかだ。黒いインクが白い紙を埋めていく。

 これを、世間では「写経」と呼ぶ。


 写経を終えると、不思議なことに、あたかも自分で問題を解き明かしたかのような、偽りの達成感に包まれる。ノートの見た目は完璧だ。赤い丸をつければ、優等生のノートそのものだ。

 もちろん、俺の脳みそのシワは一本たりとも増えていないし、学力は一ミリも上がってはいないのだが。


 そんな「数学との戦い」という名の無意味な写経作業を数日間続けた結果、俺の精神力は、夏の暑さで干からびてアスファルトに張り付いたミミズのように、限界を迎えつつあった。


「もう……無理だ……」


 ペンを置き、天井を仰ぐ。回転する扇風機の羽が、俺の絶望をあざ笑うかのように回っていた。


   *


 俺は、再びあの聖地サンクチュアリへ、そして救世主の元へと向かうことにした。

 家を出ると、午後の日差しが容赦なく肌を刺す。しかし、俺の足取りは速かった。


 図書館の自動ドアが開く。

 プシュ、という空気の抜ける音と共に、冷気が肌を包み込む。

 その瞬間、全身の毛穴がきゅっと引き締まるのを感じた。外の暴力的な熱気とは別世界の、静謐でひんやりとした空気が、火照った頭を優しく冷やしてくれる。

 古い紙とインク、そして微かな埃の匂いが混じり合った独特の香り。それは知の集積所特有の、落ち着く香りだった。


 俺は、一直線にカウンターへと向かった。

 そこには、いつものように、仕事中なのか休憩中なのか判別がつかない怠そうな態度で、新聞を広げている田村さんの姿があった。丸い眼鏡の奥の目は、活字を追っているようでいて、どこか別の次元を見ているようにも見える。


「た、田村さん! 助けてください!」


 静かな図書館に、俺の切羽詰まった声が少し大きく響いてしまった。

 田村さんは、ゆっくりと新聞を折りたたみ、眼鏡の位置を人差し指で直しながら、俺を見た。


「なんだ、騒々しいな。また英語の発音で舌を噛んだか?」


「違います! こっちです!」


 俺は、自分の数学のノートをカウンターに広げた。

 田村さんは、首を少し傾け、ノートに書かれた数式の列を眺めた。その視線は、鋭いような、眠いような、捉えどころのないものだった。

 一瞬、その目が大きく見開かれた気がした。

 そして、次の瞬間。

 彼は、こらえきれないといった様子で、肩を震わせ、

「ぶはっ」

 と、盛大に噴き出した。


「こりゃあ……見事な写経だな。一字一句、実に丁寧だ。字のバランスもいい。これを寺に納めれば、ご利益がありそうだぞ、兄ちゃん」


「笑いごとじゃありません! 俺、数学だけは本当にダメなんです! 解説を読んでも、宇宙人が書いた暗号にしか見えないんです! 助けてくださいよ!」


 俺の悲痛な叫びは、切実だった。

 田村さんは、ひとしきり笑った後、目尻に浮かんだ涙を指先で拭い、ようやく真面目な顔つきになった。面白そうに顎の無精髭を撫でる。


「まあ、そうだろうな。兄ちゃんは、大きな勘違いをしてるからな」


「勘違い?」


「ああ。『数学は、公式という呪文を丸暗記して、問題のパターンに合わせてそれを唱えるだけの科目だ』。そう思ってるだろ?」


 心臓を直接鷲掴みにされたような気分だった。

 図星だった。反論の余地がない。俺は、首がもげるほどコクコクと頷くことしかできなかった。


 田村さんは、ふっと息を吐くと、とんでもないことを言った。


「いいか、兄ちゃん。公式はな、覚えるな」


「……は?」


 俺の口がポカンと開いた。

 この人は何を言っているんだ? 

公式を覚えないでどうやって数学を解くというのだ? 

九九を覚えずに掛け算をするようなものではないか。

 いよいよこの夏の暑さで、この賢者の頭脳もオーバーヒートしてしまったのか。


「公式とはな、《《友達になる》》んだ」


 意味が分からなかった。

 友達? 

 数学の公式と?

 無機質な記号の羅列と友情を育む?

 俺の困惑した表情を見て、田村さんはニヤリと笑った。


「ついて来い」


 田村さんはカウンターを出ると、手招きをして歩き出した。

 連れて行かれたのは、図書館の隅にある学習コーナーだった。そこには、小さなキャスター付きのホワイトボードが置かれている。

 田村さんは、黒のマジックペンを手に取ると、キャップを「ポン」と小気味良い音を立てて抜き、俺をボードの前に立たせた。


「今から、お前が一番憎んでいるであろう、あの公式と友達にさせてやる」


 キュッ、キュッ、とマーカーがホワイトボードを擦る音が響く。

 田村さんが書き殴ったのは、見るだけで俺の皮膚に蕁麻疹が浮き出てきそうな、あの忌まわしき文字列だった。


『二次方程式 ax² + bx + c = 0』


 黒々とした文字が、俺を見下ろしている。

 それは、俺を苦しめる呪いの言葉にしか見えなかった。


   *


「こいつはな、今、猛烈に困ってる人だと思え」


 田村さんは、ペンの先で x を指した。


「x という、正体不明の仮面をかぶった奴がいる。こいつは本来、自由になりたいんだ。自分の正体を明かしたい。だが、見てみろ。 a とか b とか c とか、色々な奴らがこいつに絡みついて、手錠や足枷をかけて、身動きが取れなくなってる。さらに二乗なんていう重荷まで背負わされてる」


 田村さんの語り口は、まるで冒険小説の語り部のように熱を帯びていた。


「俺たちの仕事は、こいつを周りのしがらみから解放して、『x = ?』という、たった一人の、裸の姿にしてやることだ。これは計算じゃない。だ」


 救出作戦。

 その言葉を聞いた瞬間、無機質だった x が、檻に閉じ込められた囚人のように見えてきた。


「まず、x² の隣にぴったり張り付いている a が邪魔だ。こいつは x を支配している親玉みたいなもんだからな。こいつがいる限り、x は自由になれない。だから、式全体を a で割って、親玉の影響力を薄めてやる」


 田村さんは、すらすらと式を変形させていく。


 x² + (b/a)x + (c/a) = 0


「よし、親玉 a は分母という下の階層に追いやった。次に、仲間はずれの c/a だ。こいつには x がついていない。無関係な野次馬だ。邪魔だから、等号(=)という川の向こう岸へ行ってもらおう」


 キュッ、キュッ。


 x² + (b/a)x = -(c/a)


「プラスの c/a は、川を渡るとマイナスになる。これがこの世界のルールだ。さあ、ここからが本番だぞ」


 田村さんは一度手を止め、俺の顔を覗き込んだ。その瞳は、悪戯っ子のように輝いている。


「俺たちは、左側を (x + 何か)² という、綺麗な形にしてやりたい。これを数学用語で『平方完成』って言うんだが、まあ、いわば頑丈な鍵付きの宝箱の中に、x を安全に格納するようなもんだ。バラバラの状態じゃ守れないからな。そのために、魔法の粉マジック・アイテムを振りかけてやる必要がある」


「魔法の粉……?」


「そうだ。真ん中の項、(b/a)x の係数である b/a を半分にして、二乗した数だ。つまり (b/2a)² という粉だ。これを式の両辺に書き加える」


 田村さんは、迷いのない手つきで式に書き足していく。


 x² + (b/a)x + (b/2a)² = -(c/a) + (b/2a)²


「なぜこんな粉をかけるのかって? こうしないと、因数分解ができないからだ。(x + b/2a)² という、完璧な宝箱の形にならない。そして、左側だけにかけたら不公平で、天秤が傾くだろ? だから必ず、右側にも同じだけかけてやる。これが『等式の性質』という、絶対の掟だ」


 俺は、ただ呆然と、その式変形を見つめていた。

 今まで、教科書で「手順1」「手順2」として、ただ「そういうものだから」と丸暗記させられていた操作の一つ一つに、明確な「意志」と「目的」がある。

「邪魔な奴を追い出す」「形を整えるためにアイテムを使う」「バランスをとる」。

 それは、まるで難解なパズルのピースが、あるべき場所にパチリ、パチリとはまっていくような、快感すら伴う光景だった。

 数式が、生きて動いている。


「さあ、左側は宝箱に入った。あとは右側を整理して、宝箱の鍵を開けるだけだ」


 田村さんは、右辺を通分し、一つの分数にまとめる計算を始めた。


 -(c/a) + (b²/4a²) = (-4ac/4a²) + (b²/4a²) = (b² - 4ac)/4a²


 複雑に見える計算も、田村さんの手にかかれば、散らかった部屋を片付けるようにスムーズに進んでいく。


 (x + b/2a)² = (b² - 4ac)/4a²


「いよいよクライマックスだ。二乗という名の宝箱の蓋をこじ開ける。二乗を外す時は、どうする?」


「えっと……ルートをつける、ですか?」


「そうだ。だが忘れるな、プラスとマイナスの両方の可能性がある。だから ±√ というお守りをつけなきゃならん」


 x + b/2a = ±√{(b² - 4ac)/4a²}


 田村さんは、分母の √4a² を 2a に直し、素早く書き進める。


 x + b/2a = {±√(b² - 4ac)} / 2a


「そして最後に、x のそばに残っている最後の邪魔者、b/2a を、川の向こうへ追いやれば……」


 田村さんが、最後の仕上げとばかりに、大きく腕を振るって式を書き上げた。

 マーカーのインクの匂いが、鼻をくすぐる。


 x = {-b ± √(b² - 4ac)} / 2a


「……ほらな。救出完了だ」


 田村さんは、マジックペンのキャップを閉め、満足げにホワイトボードを叩いた。


 俺は、ホワイトボードに書かれた、あの見慣れたはずの公式から、目が離せなかった。

 鳥肌が立っていた。腕の産毛が逆立つほどの感動が、静かに体を駆け巡っていた。


 知らなかった。こいつが、こんな壮大な物語を持っていたなんて。

 俺が今まで見ていたのは、この公式の、完成された「顔」だけだったのだ。

 その顔が、どんな苦労の果てに、どんな論理の積み重ねの果てに出来上がったのか、そのルーツを知ろうともしなかった。

 それは、クラスメイトの過去も悩みも何も知らずに、ただ名簿の名前だけを覚えているのと同じことだ。それでは「友達」になれるはずがない。


「これで、お前は解の公式と友達ダチになった」


 田村さんの声が、静かに響く。


「こいつが、どういう理屈で出来上がっていて、どんな時に俺たちを助けてくれるのか、その成り立ち(ストーリー)を知ったわけだ。だからもう、お前はこいつの形を、必死で暗記する必要はない。もしテスト中にド忘れしても、またこの救出作戦を最初からやれば、いつでも思い出せる。自分で作り出せるんだよ」


「自分で……作り出せる……」


「そうだ。できる奴らってのはな」


 田村さんは、少し声を潜めて、秘密を打ち明けるように言った。


「問題を見た瞬間に、どの友達を呼べばいいか、分かるんだよ。『ああ、この状況は、二次方程式の解の公式って友達が解決してくれるな』ってな。なぜなら、そいつがどんな能力を持っていて、どんな性格か、ちゃんと知ってるからだ。でも兄ちゃんは、今まで友達の名前を丸暗記するだけで、そいつがどんな奴か知らなかった。だから、いざという時に、誰を呼んでいいか分からなかった。応用問題という戦場で、立ち尽くすしかなかった。そういうことさ」


 俺は、カウンターに置いたままだった自分の数学の問題集を、震える手で開いた。

 そこに並んでいる、無数の公式や定理。

 三平方の定理。正弦定理。余弦定理。

 それらが、もう、ただの無機質な記号の羅列には見えなかった。

 紙面から浮き上がり、それぞれが個性を主張し始めているように見えた。


 一つ一つが、何かを語りかけてくるようだった。

「俺は、直角三角形の時に呼んでくれよ」

「俺は、角度が分からない時に役に立つんだぜ」

 彼らは、古代の数学者たちが、数千年の時をかけて積み上げてきた叡智の結晶であり、俺を助けてくれる頼もしい仲間たちだったのだ。


 俺は、今まで、数学という教科の、本当の面白さに、一パーセントも気づいていなかったのだ。

 ただの苦行だと思っていたものが、突然、豊かな色彩を帯びた物語へと変わった瞬間だった。


   *


 その日の帰り道は、昨日までとは全く違う景色に見えた。


 図書館の重いガラス戸を押して外に出ると、世界は一変していた。

 俺が「数式の冒険」をしている間に、どうやら激しい夕立が通り過ぎたらしい。

 先ほどまで世界を支配していた暴力的な熱気は嘘のように消え去り、空は、まるで巨大な筆で洗い流されたように、深く澄み渡っていた。


 アスファルトは黒く濡れ、そこから立ち昇る蒸気が、雨の匂いを含んで鼻腔をくすぐる。

 埃っぽさと、植物の青臭さと、水の匂いが混じり合った、夏の夕暮れ特有の、どこか切なくなるような香りが充満している。


 ふと見上げると、東の空に、巨大な虹がくっきりと架かっていた。

 七色の帯が、灰色のビル群をまたぎ、空のキャンバスに鮮やかなアーチを描いている。その色彩はあまりに鮮烈で、人工物には決して出せない透明感を湛えていた。


 その虹を見ながら、俺はふと思った。

「綺麗だな」

 以前の俺なら、ただそう感じて、スマホで写真を撮って終わりだっただろう。


 だが、今の俺の頭には、別の思考が芽生えていた。

 この七色のアーチも、きっと、数式で説明できるんじゃないか。

 太陽の光が水滴に入射し、屈折し、反射して、再び空気中に出ていく角度。光の波長ごとの屈折率の違い。

 それらを x や y や θ(シータ)といった文字を使って表し、計算した結果として、この美しい半円が空に描かれているのではないか。


 世界は、数式で書かれているのかもしれない。

 風の動きも、雲の形も、この虹も。

 すべては、神様が書いた壮大な数式の結果として、そこに存在しているのかもしれない。


 生まれて初めて、そんな純粋で、知的な好奇心が、胸の奥底でうずいていた。

 それは、解けない問題への恐怖ではなく、世界の仕組みを知りたいという、根源的な欲求だった。


 家に帰り、夕食を済ませた俺は、迷うことなく自分の部屋の机に向かった。

 机の上には、あの忌まわしき数学の問題集が置かれている。

 昼間までは、見るだけで吐き気を催していた、あの「鈍器」だ。


 だが、今の俺には、それが全く別のものに見えていた。

 表紙のイラストの嘘くさい笑顔すら、今は「ようこそ、冒険の世界へ」と歓迎してくれているように見える。

 それはもう、ただの敵ではなかった。

 未知の物語が詰まった、まだ見ぬ魔法や伝説の武器が記された「冒険の書」のように見えた。


 俺は、深呼吸をして、最初のページを開いた。

 そして、そこに載っている一つ一つの公式について、心の中で語りかけた。


「お前は、一体どんな奴なんだ?」

「どうやって生まれたんだ? 誰が考え出したんだ?」


 俺は、教科書の解説ページを読み解き始めた。

 以前は読み飛ばしていた、「証明」や「導出」と書かれた細かい文字の羅列。

 そこには、先人たちの試行錯誤と、論理のドラマが詰まっていた。


 鉛筆を握る手に力が入る。

 ノートに数式を書き写す行為は、もはや「写経」ではなかった。

 それは、新しい友達と、自己紹介をし合い、互いの理解を深め合うような、ワクワクする「対話」だった。

 x が語りかけてくる。方程式が生き生きと動き出す。


 数学という、あまりにも強大で、憎らしいとさえ思っていた敵と。

 俺は今、ようやく、初めて対等に向き合えるスタートラインに立ったのかもしれない。


 ふと窓の外を見ると、日は完全に落ち、夜のとばりが下りていた。

 草むらからは、秋の気配を微かに含んだ虫の声が聞こえ始めている。

 リーン、リーン、という涼やかな音色が、熱を持った俺の脳を心地よく冷やしてくれる。


 長く、退屈で、苦痛だと思っていた夏休み。

 でも今は、それがほんの少しだけ楽しくなりそうな予感がしていた。

 冒険に必要な時間は、まだたっぷりと残っている。


 俺はシャーペンの芯をカチリと出し、新しいページに、最初の一文字を力強く書き込んだ。

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