猫の鳴き声

舗装の整った道を、ルナは歩く。靴の裏に感じるのは、滑らかで無機質な石の感触。感情のない床を進んでいるようだった。


通りの両側には高い塀と、まっすぐに刈り揃えられた生垣。この辺りには情報らしい情報が落ちていない。スパイとして活動する彼女にとって、貴族街はつまらない場所であった。


ドーデモ国の中でも選ばれた者たちの住まう一角。突飛な現象は整備され、隅々まで清掃されている。一言でいえば、気持ち悪い。美しすぎるというのも、それはそれで異常なのだ。


そう思っていた。その“音”を聞くまでは。


「ワン!」


立ち止まった。風の音とも違う、小さくもはっきりとした鳴き声が、通り奥から届いた。犬の鳴き声だ。それも、わりと元気な一声。


ルナは周囲を見渡すも、犬の姿など見えない。鎖の音も、足音も、何一つない。


⎯⎯代わりに、いた。


柵の向こう、薔薇の植え込みの根元。陽の当たる小さな石敷きの上に、猫が座っていた。小柄で、白い毛並みに黒い尾。目は青く、顔立ちも整っている。おそらくどこかの貴族が飼っている猫なのだろう。


だが、その猫がもう一度鳴いた。


「ワン!」


ルナは目を細める。猫が、犬の鳴き声で鳴いている。耳を疑ったわけではなかった。スパイの耳は鍛えられている。声色の違いも、声帯の震えも聞き分ける。


「でも犬じゃない⋯⋯」


小さな声で呟いた自分の声が、やけに空気に馴染んでいた。しばし観察する。猫はルナに気づいているようで、気づいていない。しっぽを左右に揺らしながら、日向の中にいる。


そしてもう一度。


「ワン!」


なんの誇張も混ざっていない。自分は犬であると主張するかのように、堂々とした「ワン」。柵の奥では、庭師が忙しなく薔薇の剪定をしていたが、まったく気に留めていない様子だった。つまりこれは日常の一部。


「そんなわけない⋯⋯」


ポーチから手帳を探し、慣れた手つきで報告書を書き始める。


◆極秘情報No.014

『王都ダカラナニ北区の貴族街にてワンと鳴く猫を発見』

発声を三度確認。いずれもニャーではなくワンであった。

→多種模倣の訓練を受けた偽装型動物の可能性あり。


猫は、もう鳴かなくなっていた。しずかに毛づくろいをして、日差しの中に溶けている。


彼女も近づくことはしなかった。正体を暴くのは野暮なことだから。そのうえで考える。なぜその場所に、なぜその鳴き声か。


真実を知るよりも、想像するほうが、ずっと怖くて面白い。柵の向こうの猫と、目が合った。その青い瞳が、一瞬だけ光を帯びた気がした。


「⋯⋯やっぱり、ただの猫じゃない」


小さく呟き、くるりと背を向けた。背中から小さな声が追いかけてくる気がしたが、振り返らなかった。






燭台の炎が、ほの暗く揺れている。書かれているのは、戦争に何の意味もない。しかし、どこか興味をそそる内容であった。


「猫の皮をかぶった犬⋯⋯いや、犬の魂を持った猫?」


魔王は腕を組み、神妙な顔つきになった。この謎が解けることは、たぶんない。なぜなら、どうでもいい事だから。

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