がんばりボーイ

「うおおおおおお!」


気合いの声とともに、鉄棒に跳びかかる少年。


芝生公園、通称シバコー。その中でも比較的人気の少ない午前の時間帯。芝生にはまだ朝露が残り、冷たく澄んだ空気が流れていた。


「うわああああ!」


情けない声を上げながら体勢を崩し、彼は見事な放物線を描いて落下した。


そしてその様子を木陰から熱心に観察している少女。魔族のスパイ、ルナである。彼女がシバコーにやってきた理由は、ここ数日気になって仕方がなかったターゲットを観察するためであった。


(⋯⋯対象を視認。がんばりボーイ、今日も出現)


そう、ターゲットは少年。名も知らぬ少年は、毎朝鉄棒に向かい、逆上がりに挑戦しては玉砕を繰り返していた。彼の失敗パターンは多彩、しかし一貫して回らない。とにかく逆上がれない。


その様子が、ルナの観察欲を強烈に刺激した。魔王様より与えられた任務とは無関係。だが、価値がないとは言いきれない。


「人間の幼体が、失敗から学び成長していく。これは一種の自己強化型訓練術」


冷静に理屈をつけながら、彼女は木陰でスケッチを走らせる。


◆極秘情報No.005

『がんばりボーイ、逆上がりに連日失敗。諦めず挑戦中』

人間幼体の学習意欲・反復能力・精神耐久性を確認。

→魔族側の基礎訓練モデルとして参考にすることを推奨。


その日、少年は新たな試みに挑んでいた。ズボンのポケットから取り出したのは手袋。


「見てろよ⋯⋯昨日の俺とは違うんだからな!」


深呼吸の後、鉄棒に跳びつく。しかし⎯⎯


「ぎゃあああ!」


結果は失敗。いつものごとく芝生に倒れ込んだが、明らかに前日までとは違うことにルナは気づいた。


「成功への兆し⋯⋯いや、これは突破前の“溜め”」






翌日。ルナはいつもより早くシバコーに向かった。


ベンチにはすでに例の少年。鉄棒と向き合い、目を閉じる。イメージトレーニングを重ねているのだろう。手袋などの小細工はない。正々堂々、己との勝負。大丈夫だろうか。


ルナの心配を気にせず、少年は跳ぶ。気合いの声など必要ない。腕に込めた力が鉄棒に伝わる。振り上げた足が空を切り、腰がゆっくりと鉄棒を超える。


静寂を切り裂くかのように身体が回った。時間が止まったような、胸が高鳴る瞬間。


「⋯⋯っ! できた⋯⋯できたああああっ!!」


震える声とともに涙が溢れ出す。歓声と拍手がどこからともなく集まり、彼を包み込んだ。


ルナも拍手を送る。


(繰り返しの習慣、環境適応能力⋯⋯人間は想像以上)


翌日も、少年は鉄棒と向き合っていた。今度は二回連続で成功。見事な反復運動。


その様子を、木陰から手帳にメモする少女。その表情には、スパイらしからぬ微笑みを浮かべていた。






一方、魔王城ではちょっとした騒ぎになっていた。ルナの報告書が珍しく分厚いからである。表紙には丁寧なタイトルでこう書かれていた。


『逆回転動作取得に向けた人間幼体の努力経緯記録書』


「また、くだらんやつだな⋯⋯」


しかし読み進めると、事細かな観察記録や日毎の失敗パターン、成功分析。さらにはフォーム図までついていた。


「なんで図解! いらないだろ!」


また、報告の末尾には『決して挫けることのない意志に乾杯』と記されている。


魔王は少しだけ笑い、湯呑みを一口。


「⋯⋯よくやったな、がんばりボーイ」


誰に届くでもないその声は、静かな部屋にしみ込んでいった。

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