闇を切り開くまで

夜明け前、戦況は最悪だった。


 連邦軍が予想をはるかに上回る速度で前線を押し上げてきた。

 補給線は切れ、味方はすでに半数が撤退。

 エルレッタの小隊は、孤立した塹壕ざんごうの中に取り残された。


 「援軍は……来ないのか?」

 誰かが呟いたその声に、誰も答えなかった。


 無線は沈黙したまま。

 弾薬は残りわずか。

 次の波が来たら、終わる。


 それを理解した瞬間、何人かの兵士が銃を置き、空を見た。


 けれど、エルレッタ=アーロンは、違った。

 彼女の目は、戦場を見ていた。


 「通信室がまだ生きていれば、後方に連絡が取れる」

 彼女はそう言った。

 だが、その通信室は、すでに連邦の突撃隊に包囲されていた。


 「たどり着ける確率は?」


 「20%。でも、行かなければ生存率は0%」


 小隊長は黙っていた。

 だが、エルレッタの目はもう決まっていた。


 「私が行きます。後方には、援軍と砲撃支援ほうげきしえんを要請。

 条件はひとつ――この

塹壕が十五分、持ち堪えること」


 「お前、正気か? 一人で敵の包囲を抜けるつもりか!?」


 「……任務ですから」


 静かに、確かに、彼女は言った。


そして、彼女は一人、夜の戦場を駆けた。


 倒木の影をすり抜け、瓦礫がれきの間を這い、崩れかけた地下通路を通り抜ける。

 銃声が近づけば息を止め、足音が聞こえれば泥に伏せた。


 雨のように飛び交う銃弾の中を、まるで”死に場所を知っているかのように”避けて進む。

 それは奇跡ではなかった。

 彼女が、死ぬ覚悟をした兵士ではなく、「絶対に生き延びる計算」をしている者だったからだ。


通信室にたどり着いたのは、出発から十二分後。


 中にいたのは、弾倉を打ち尽くした老兵だけだった。

 エルレッタはすぐさま指示を出し、軍コードで座標を打ち込む。


 「後方支援部隊へ――前線塹壕G13、包囲。砲撃支援急行要請。繰り返す、前線G13――」


 彼女の声は冷静だった。

 だがその背後で、敵兵が扉を蹴破った。


 発砲音。


 老兵が叫び、崩れる。

 銃を構えた敵兵が、彼女に銃口を向ける――


 その瞬間、エルレッタは先に引き金を引いていた。


 躊躇ちゅうちょなどなかった。

 手が震えることもなかった。

 彼女は撃ち、通信を完了させ、そしてその場を離れた。



 十五分後、後方から砲撃が始まった。

 連邦軍の前進部隊は崩壊し、孤立していた小隊は救出された。


 エルレッタは、全身に泥と血をまとったまま、通信室から戻ってきた。

 傷だらけの手、声は出なかった。

 それでも、歩いて戻った。


 その背に、兵士たちは――“英雄”の名を重ねた。



 その日以降、彼女は「白の英雄ホワイト・フェンサー」と呼ばれ始めた。


 冷静で、静かで、ひとりで部隊を救った“兵士の理想像”。


 だがその背後に、どれだけの死と、沈黙と、諦めがあったかを――

 本当に知る者はいなかった。



戦闘が終わった塹壕には、静けさが戻った。


 泥と血の中で、エルレッタ=アーロンは一人、銃の手入れをしていた。

 周囲では誰も彼女に近寄らない。

 “任務を冷徹に遂行する少女”――その噂はすでに広がり始めていた。


 その時だった。ひとりの男が塹壕に降りてきた。

 濃い軍コート。右肩には銀の鷲章。

 歩みは静かだが、部隊の誰もが無意識に背筋を伸ばす。


 「……アーロン。君だな」


 その声に、エルレッタは顔を上げた。

 相手は、マクスウェル少佐――帝国第七機動部隊の戦術指揮官。

 名高き“鋼の戦術家”だった。


 「通信室突入と、敵包囲下てきほういかの任務達成。見事だった」


 「任務です」

 エルレッタは簡潔に答えた。だが、少佐の目はその中の“揺るがぬ芯”を見抜いていた。


 「……冷たいな。だが、それでいい。冷たさは戦場で死なないための最初の鎧だ」

 マクスウェル少佐は、懐から一枚の命令書を取り出した。


 「アーロン。次の任務は私と同行する。

 最前線。死者が一番多い“黒の谷”――そこを三日で奪還する。できるな?」


 エルレッタは、ほんの一瞬だけ瞳を細めた。


 「了解しました、少佐」


◆◇◆


 黒の谷――そこは地獄だった。


 ぬかるんだ泥。腐った水。夜でも消えない火の気配。

 だが、マクスウェル少佐は迷いなく突き進んだ。


 「右斜面に隠れた狙撃兵がいる。撃たせるな、アーロン」


 言われた瞬間、エルレッタは一歩前に出て、狙撃地点に向かって煙弾を投げた。

 次の瞬間、別ルートから移動していた味方部隊が突入。


 彼女は、少佐の“手”として正確に動いた。


翌日。


 部隊は敵陣の補給路を寸断し、三日以内に谷を制圧。

 作戦成功。


 エルレッタはまた、誰にも気づかれず血を流し、

 誰よりも正確に敵を見つけ、撃ち、冷静に歩いていた。


 だが――


 「……よくやった、アーロン」


 マクスウェル少佐の言葉は、初めて“命令”ではなく“称賛”だった。


 「お前は、生き延びる力を持っている。それも、自分だけじゃない。部隊を生かす力だ」


 エルレッタは何も答えなかった。

 ただ、黙って頷いた。


 そのとき、ようやく彼女の姿は、

 「撃つだけの兵士」から「指揮に耐える兵士」へと、変わり始めた。


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