最後のエルレッタ
祇斬 戀
最後のエルレッタ
私は、エルレッタ=アーロン。
ペンを握り、最後に綴り、名を捨てた。
銃声が、風のように遠くから響いていた。
それはどこかで命が消えた音――けれど、ここでは誰も驚かない。
朝が来て、兵舎の屋根の上に灰が降り積もり、昨日と同じように号令が鳴る。
エルレッタ=アーロンは、硬いベッドの上で目を開けた。
兵舎の天井は薄汚れていて、壁には冬の冷気が染みついている。毛布を剥がすと、ひやりとした空気が肌を撫でた。
「エルレッタ!あと二分、起きないと中庭で腕立て百回ね」
隣のベッドで着替えていたフレイ=シアンが、笑いながら言った。
彼女の声は明るいが、その背中には昨日受けた擦過傷が痛々しく残っていた。
訓練中の事故――と軍は処理した。だが、リィナは知っている。あれは「偶然」なんかじゃない。
平民の女が、士官候補生の中に紛れ込んだ。
それだけで、敵意は充分だった。
「……もう慣れたわ」
エルレッタは静かに返しながら、手袋を引き寄せた。
皮革の軍用手袋――兄の形見だったもの。父が戦死し、母が病死し、弟が飢えで倒れたあと、これだけが彼女に残った「家族」だ。
外では朝礼のラッパが鳴る。
乾いた金属音が、誰かの悲鳴のように空に響く。
今日は、前線への配属通知が届く。
何人がこの兵舎から消え、二度と戻らなくなるのか。それを考える暇もないまま、少女は立ち上がった。
戦場に咲いた花は、きっと誰にも踏まれて散るために咲いたわけじゃない。
彼女はそれを信じたかった。
中庭には、制服を着た候補生たちがずらりと並んでいた。
皆、顔を上げている――が、その目は冷たい。誰もが、誰かを見下ろすか、見張っている。
その中にあって、エルレッタの存在は明らかに異質だった。
整った身なり、淡い金髪を短く切り揃えたその姿は、一見して清潔で、そして無駄がない。
だが、それが逆に「平民のくせに」と彼らの神経を逆なでする。
「今日も気合いが入ってるな、エルレッタ=アーロン」
声が飛んだ。
振り返らずともわかる。セルジュ=ロウ。名門貴族ロウ家の跡取りにして、この訓練場の“王”だ。
「あなたも、早起きが得意なのね」
エルレッタは表情を変えず、静かに返す。
「へえ、口の利き方は相変わらずだな。ま、前線に出りゃすぐ黙ることになるさ。……そこで死ななきゃ、だけど」
エルレッタの頬を何かがかすめた。軽口に聞こえたが、その声には明らかな“選別”の意図がある。
候補生の中には、エルレッタが戦死すれば「席が一つ空く」と考えている者も少なくない。
その視線が刺すたびに、エルレッタは手袋をきつく握った。
父も、弟も、自分の命でしか道を選べなかった。
彼女は、戦場でしか立ち上がる場所がなかった。
「貴様ら、整列ッ!」
怒号が響き、全員が即座に背筋を伸ばす。
現れたのは、訓練教官アンドレイ。戦場を十年生き延びた老兵で、敬意と恐怖を同時に背負っていた。
「本日、前線配属の通達が来た。名前を呼ばれた者は、今日限りでこの学舎を去る!」
ざわ、と一瞬、空気が動いた。
「アーロン、シアン、ロウ……」
エルレッタの名が呼ばれた瞬間、彼女の周囲から空気が変わった。
けれど、彼女は動じなかった。
ただ、深く息を吸い、まっすぐ前を見つめていた。
蒸気機関の鈍い唸りが、列車の床を震わせていた。
鉄の車輪がガタガタと音を立て、兵士を詰め込んだ貨物車両が東の前線へと進む。
エルレッタ=アーロンは窓のない車内で、じっと膝に手を置いていた。
真新しい軍服。油の臭いが染みついた銃。名前の刻印がないヘルメット。
全てが自分の身体から浮いているような、不自然な感覚。
隣では、フレイ=シアンが緊張を隠すように小声で話しかけてくる。
「……ねえ、怖い?」
「正直に言えば、少しね」
「うん、私も」
フレイは小さく笑ったが、その手は震えていた。
誰もが黙っていた。
座席の向かいにいたセルジュ=ロウも、いつもの皮肉を口にしなかった。
窓のない車内に、爆撃の音が遠く届いた気がした。
地面を叩くような、雷のような、何かが崩れる音。
そのとき、車両が止まった。
「降車準備! 二分以内に整列しろ!」
怒号と同時に、扉が開いた。冷たい風が鉄の匂いを運んでくる。
外に出た瞬間、エルレッタは思わず立ち止まった。
視界に広がったのは――焼け焦げた大地。
木は折れ、家は崩れ、土は砲弾で抉られていた。
煙が空を覆い、空気の奥に血の匂いが漂っていた。
「これが、戦場……?」
誰かがつぶやいた。けれど、その言葉は風にさらわれた。
前進を始めた部隊の列に、エルレッタも加わる。
土嚢と鉄板で囲まれた塹壕に入ると、兵士たちが血まみれで座っていた。
手足の一部がない者。うつろな目のまま笑っている者。
皆、生きていたが、“生きている”とは思えなかった。
その時、銃声が鳴った。すぐ近くだ。
「伏せろッ!!」
誰かが叫ぶと同時に、エルレッタは本能で地面に身を投げた。
耳がキーンと鳴り、視界が一瞬、白く弾ける。
「こっちだ! 移動しろ、こっちに援護線を!」
砲煙の中、軍曹が怒鳴っている。
フレイが這いつくばるようにして近づいてきた。
「エルレッタ……!」
「大丈夫、動ける」
そう言ったものの、手は震えていた。
怖い、死にたくない――でも、それを口にした瞬間、きっと崩れてしまう。
重たい銃を構え、銃眼に顔を近づける。
そこにいたのは――瓦礫の中、こちらを見つめるひとりの少年兵だった。
連邦の制服。だが、彼の目は、どこか自分と似ていた。
彼も、殺されたくないだけだった。
「撃て、アーロン!」
背後で誰かが叫ぶ。
引き金を引く指が、動かない。
でも、撃つしかなかった。
引き金は、思ったより軽かった。
人の命を奪うには、あまりにも簡単だった。
乾いた銃声が、耳を打った。
銃口の先にいた少年兵は、声も上げずに崩れた。
血が土に染みていく。体の奥から湧き上がる嗚咽も、後悔も――何も、なかった。
「……命中。敵兵、一名排除」
エルレッタ=アーロンは報告した。無表情で、機械のように。
その横顔を、同じ小隊の兵士がこっそり見ていたが、恐れていた。
人間はあそこまで無感情に、人を撃てるものなのか、と。
だが、エルレッタの胸の中では何かが確かに壊れていた。
痛みはなかった。ただ、静かに何かが剥がれ落ちる感覚だけがあった。
前線に立って、三時間。
エルレッタの手は泥にまみれ、何発も銃弾を吐き出していた。
初弾以降、迷いはなかった。
敵兵が顔を出せば撃つ。
撃ち漏らせば、今度は自分が死ぬ。
それだけだった。
「アーロン、……さっきの、迷わず撃ったのか?」
小隊長が低く尋ねた。
彼はまだ若く、顔にも火薬の煤がこびりついたままだ。
エルレッタは頷く。「任務なので」
「お前、初撃ちだったろう。……怖く、なかったか?」
「必要ですか? 怖がることが」
その一言に、小隊長は言葉を失った。
敵を殺すことに震える者は多い。
泣きながら引き金を引く者。撃ったあと嘔吐する者。撃てずに死ぬ者。
だがこの少女は――まるで、最初から”そう造られていた”ように撃った。
⸻
夜。
フレイ=シアンが隣に座っていた。顔は疲れきり、目の下に隈ができている。
「エルレッタ……」
「なに?」
「なんで、そんなに……冷たいの?」
エルレッタはフレイの顔を見ないまま答えた。
「冷たくしなければ、生き残れないの」
「でも、さっき撃ったの……子供だったよ。あの敵兵、十四か十五くらいで――」
「銃を持っていたわ。それだけで十分」
静かな声だった。泣いているわけでも、怒っているわけでもない。
ただ、判断し、撃った。それだけの事実を並べるように。
⸻
その夜、エルレッタは、深く疲れ、眠った。
月明かりに照らされた横顔に一粒の涙が流れた。
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