第16話 春祭り(後編)

「わたし、そろそろ戻らないと」


 カイルと共にいくつかの出店を回ったあと、リュネは彼に言った。ぱちぱちと琥珀色のまなこがまたたく。


「帰るのか?」

「ううん。出店」


 着いてくる?

 首を傾げて尋ねてみると、彼は繋いだままだった指に力を込めた。


 人波を、かきわけながら進む。指先に、ほんの少しかかった体温と重みが、なんだか足を軽くさせる。

 名残惜しさを感じながらも着いた自分の出店には、すでに多くの子どもたちが集まっていた。リュネの姿を見るなり、幼子たちは期待に満ち溢れた声を上げる。


「あっ! 魔女さまだ!」

「魔女さま来たよ!」

「ねーえー、まだあ?」

「はいはい、ちょっと待ってね」


 リュネは屋台の内側に入り、事前に準備していた陶器の器を並べた。蓋を開け、別のカゴから堅パンを取り出す。

 子どもたちの興奮は最高潮。リュネはにこりと笑って、すうっと大きく息を吸った。



「さあみんな! 『魔女のジャム』が食べたい人はいらっしゃい!」


 真っ先にやって来るのは、小さな子たち。転がるように群がって、ジャムを乗せた堅パンを受け取る。その勢いにつられて、大きな子たちや大人たちもぞろぞろと吸い寄せられる。


 リュネ特製の魔女のジャム。薄桃色のそれを口にした子どもたちは、とろけるように目を細めた。


「あまぁい!」

「おいしーい」

「おかわり食べたい!」

「こらっ、あんたたち! 魔女さまにちゃんとお礼を言うんだよ!」


 屋台の周りは一気に騒がしくなった。リュネはそれを微笑ましく見ながら、特製の甘いお菓子の準備をする。

 並べられたそれを、カイルはひょこりと覗き込んだ。


「こんなもん作ってたのかよ」

「毎年ね。春のジャムは、リンゴとバラと、魔女のおまじない。食べれば笑顔になること請け合いよ」


 ふうん、とカイルはさほど興味なさげ。その様子に対して、おかわりを求めてやって来た少年少女がけたけたと笑った。


「カイル食べないのー?」

「魔女さまのジャムおいしいよ?」

「ねえー食べよーよお。カイルう」

「おい、そのベタベタした手で触んじゃねぇよ。これで拭け」


 きゃあ、とはしゃぎ声が上がる。追いかけっこのように、布を持ったカイルと、顔や手をべたべたにした子どもが駆け回る。

 その様子に、喉元のくすくすとした笑い声が、なかなか収まらなかった。


(ああやってると、どっちも似たようなものね)


 戻ってきたカイルは、ちらちらとお菓子とリュネを窺っていた。リュネは堅パンにジャムを乗せながら、ひらりと彼に視線をやる。


「いる?」

「……ちょっとでいい。チビどもが食いたがるだろ」

「はいはい。じゃあ、少なめにしてあげる」


 淡い桃色の、とろりとしたジャムを掬って、リュネは堅パンの真ん中に乗せた。春のジャムは、華やかなバラの香りと、リンゴの甘みと少しの酸味。

 それから、とびきり甘くて笑顔になる魔女の『おまじない』。

 その、一口で食べられるほどの小さなお菓子を、カイルに手渡す。


 彼はそれをひょいと口に放り込み——くるんと目を丸くした。


「甘えな! どうなってんだよこれ」

「ジャムは、保存用にたくさんお砂糖を使うのよ。それに、甘味は幸せの味だもの。いっぱい甘い方が幸せでしょ」

「にしたって……」


 何か言いたげなカイルのくちびるを、指でそっと押さえる。それからリュネはにやりと笑った。


「レシピは、魔女の秘密」


「すみませーん。こっちにも貰えますかあ?」

「あっ、はーい……ね、カイル。わたしはしばらくここにいるから、疲れたら戻ってらっしゃい」


 


 薄暗闇に辺りが包まれている。遠くに聞こえる焚き火と歌の欠片を聞きながら、リュネはため息をついていた。


 晩餐会の行われる館は、春祭りのフィナーレが行われる広場からは、少し離れている。仕方がないが、今夜はここから祭りの終わりを楽しもう。

 体は確かに疲労感を覚えている。が、それは決して嫌なものではなかった。


(結局、あれからカイルはずっと手伝ってくれたんだっけ)


 毎年——育ての老婆が亡くなってからは——ひとりで出店は回していた。今年もそのつもりだったが、違った。カイルが在庫を管理したり、出店から離れたところにいる人にも届けに行ってくれたから。


 遊びに出ても良かったはずなのに。それこそ、彼は昼に振る舞われた子豚の丸焼きを楽しみにしていたはずなのに、それでも終わりまでリュネの近くにいた。


 彼は、相変わらずにこにこと愛想を振りまくような笑い方こそしないけれど。それでも楽しそうなのは、十分伝わってきていて。


「……楽しかったなあ」


 ぽつりとこぼれる。またたく星が、夜空いっぱいに広がっている。

 明日からは、またいつも通り。この、非日常と日常の境目のような時間が、リュネは大好きだった。


 そんな感傷を切り裂くような——草をかきわける音。リュネははっとして、もたれかかっていた石壁から背を離す。


「……誰?」


 もう、外部の人は帰ったか、広場に集まってる。来賓の客はみな、館の中に入って晩餐会の開始待ち。

 不審なその人物を恐れたリュネに対し、相手はひどく柔らかな口調で草木を踏み分けながら近づいてきていた。


「ああ、すみません。道に迷ってしまって。晩餐会の会場を探しているのですが……」

「ああ、それなら——」


 ここの表ですよ。案内しましょう。

 そうやって言うつもりだった。のに。


(わたしは、この声を知っている)


 どっ、と汗が吹き出る。心臓が悲鳴を上げている。嫌な予感が頭の中を繰り返し駆け巡る。

 

 だって、知っているのだ。この低くて、優しくて、柔らかい。警戒心なんてひとつも抱かせないような声。

 忘れたくても、忘れられなかった声。

 顔を逸らしたまま、上げられない。リュネはくちびるを噛んだまま、硬直した。

 

 怖い。怖い怖い怖い。逃げろと頭が司令を出しているのに、体が動かない。引きつった息を、整えることすら今は難しい。


 じゃり、と土を踏む音。視界の端に、上等な男ものの革靴が見えた。


「どうかなさいましたか」


 覗き込んでくる。男の顔。見たくない。知りたくない。

 だのに、視線が、つうっと、そちらを向いて。


(ああ。そんな……嘘。嘘よ)


 後ろに撫で付けた、闇に溶けそうな黒い髪。精悍な顔立ちの中で、一際輝くのは金のまなこ。

 上等で上品な、装飾がふんだんに使われた服装は、外出時のそれで。記憶にあるよりも少し歳をとった姿だけど、それでも見間違えるはずがない。


 『わたし』が。セレスティアが敬愛してやまなかった、お兄さま。


(なんで……どうして、ルシアンお兄さまがここにいるの!?)


 固まったまま動かないリュネ。不審に思ったのか、男——ルシアンはそのまなこをじっと見つめた。


 やがて、困惑した声が、その名前を呼んだ。


「……セレスティア?」

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