第3話 錦鯉は血の中で泳ぐ

 ――数日後、天王寺の古アパート。


 鉄錆びの匂いと湿った畳の上。蓮司は、ベッドの端に腰掛け、煙草の火を消す。隣には、裸の肩を布団で覆った若い女。


 井川遥に似た顔立ち。どこか影を宿した瞳をした女の名は、朝霞あさかミナ。潜入中のジャーナリストを名乗っていた。

 ――だが、本当のところはまだ分からない。


 「……情けで抱いたの?」


 ミナが低くつぶやいた。


 「違う。お前が孤独すぎたから……それが背中に見えただけだ」


 蓮司の言葉に、ミナは目を伏せた。

 その背後で、部屋の引き戸がノックもなく開いた。



---


 入ってきたのは、異様な長身の男。

 まるで影のように痩せて、ギラついた目をしている。顔は――松重豊そっくり。


 「……西宮の狂犬。アンタに会いに、東京から来た」


 男は名を**藤崎剛介ふじさき ごうすけ**と名乗った。かつて警視庁で裏工作を仕切っていた元公安。

 今はフリーの諜報屋だ。


 「“ニードル”の背後に、もっとでかい化け物がいる。……名を“ニキータ”って言う。女だ。元ロシア情報機関の人間。今は、日本の地下組織で動いてる」


 蓮司は目を細めた。


 「……その女、舘ひろしに似た男と組んでるか?」


 藤崎が小さく笑った。


 「知ってるようだな。“舘のゴロ”って呼ばれてる。元自衛官、現・運び屋。ヤクと人間、両方運ぶ冷血のドライバーだ」



---


 夜。


 蓮司は藤崎と別れ、再びミナの元へ戻る――だが、そこにミナの姿はなかった。


 代わりに、部屋の中央には一尾の錦鯉が血の水たまりの中で跳ねていた。


 その鯉は明らかに“人の手”で持ち込まれたものだった。

 襖にナイフで刻まれた言葉――


 《Nikita sends her regards.》



---


 蓮司は激しい怒りに肩を震わせながら、情報屋ジョージの店へ向かう。


 「ジョージ……ニキータは、どこにいる」


 「Wait, wait、落ち着けよ、レンジ。ニキータは今、**神戸の港で“伊原剛志に似た武器商人”**と会ってるって噂がある。“港湾21”って倉庫街さ」



---


 神戸・港湾21。

 霧の中に浮かぶクレーン。倉庫の奥で、蓮司は“ニキータ”と対面する。


 黒いコート、金髪ショートカット。痩せた体に似合わぬ重厚なオーラ。

 まるで、闇の中で育った冷血の女豹だった。


 その隣には、全身をアルマーニで固めた伊原剛志似の男。肩に錦鯉の刺青が覗く。関西の裏社会で「魚鱗ぎょりんのアキラ」と呼ばれる男だった。


 蓮司が一歩前に出た。


 「女に手ェ出した代償、払ってもらうぜ」


 ニキータは笑う。まるで氷の破片が転がるように冷たい声で。


 「なら、ショウタイムね」


 次の瞬間、銃声が交差した。

 トカレフ、リボルバー、そしてアキラのマシンピストル。

 港に再び、血と硝煙の匂いが舞った――



---


 勝負の果て。蓮司は、瀕死のアキラを見下ろして言った。


 「錦鯉はな、血で染まっちゃ泳げねぇんだよ」


 ニキータは逃がした。だが、ミナの仇を誓ったその目は、すでに次の戦場を見据えていた。



---


 西宮に戻った夜。

 蓮司はいつもの立ち飲み屋で、焼酎のロックを舐める。


 「……なんじゃこりゃ……錦鯉に説教されるとはな」


 マスターがボソリと返す。


 「お前さん、そろそろ本気で“復讐”しなきゃダメなんじゃねぇのか?」


 蓮司は、ゆっくりと頷いた。


 「……“猟犬”はな、獲物を追う時だけ生きてるんだ」


 ショートホープの煙が、今夜も哀しく天井へと消えていった――



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