『あなたの子を、産んだの。』
ビビりちゃん
第1話 交差点の女
梅雨の中、灰色に濁った交差点を渡ると、女はそこにいた。 傘もささず、じっとこちらを見ていた。 整った顔立ちに、不自然な微笑み。 胸元に抱えられていたのは、小さなぬいぐるみ。いや——それは赤ん坊の格好をした人形だった。
「やっと見つけた……あなたの子よ」
背筋に氷柱が落ちるような声だった。何の冗談だ? 名前も知らない女に、突然そんなことを言われて、俺はただ曖昧に笑い、早足でその場を離れた。 まるでよくある街の奇人だと思い込もうとしながら。
だが、それは——始まりにすぎなかった。
月曜の朝、いつも通り会社の入り口を通ったとき、総合受付に違和感があった。 華やかなスーツを着た中年の女性が、深刻そうな顔で何やら受付嬢と話し込んでいる。 だが、そのすぐ隣で——見覚えのある女が、俺をじっと見ていた。
「あっ……いらっしゃいましたね」 彼女はにこりと笑った。口角だけが不自然に上がったその笑顔は、相変わらず人形のようだった。
受付嬢が困ったように俺を見た。「あの……こちらの方が“お子さん”を預けにいらしたと……」
「こちらの保育施設ではお引き取りできないとお伝えしましたが、“彼の子ですから”と強く——」
俺は即座に彼女から目を逸らし、「知らない人です」とだけ言った。それしか言えなかった。 同僚たちの目が刺さる中、女は落ち着き払ったまま俺に言った。
「あなたが責任、取ってくれるんでしょ? 父親なんだから」
俺は息もつけないままエレベーターに駆け込んだ。あの目が、閉じる扉のすき間から最後までこちらを見ていた。 狂ってる。けれど確実に、俺の人生に踏み込んでこようとしている。
「おい、昨日の女ってさ……お前、ほんとに知らない人なの?」
昼休み、社員食堂。唐揚げ弁当のフタを開けた瞬間、向かいに座った同期の矢野が切り出した。
「え、何の話?」
とぼけてみたが、矢野の目は笑っていなかった。
「俺、昨日ちょうど受付のところにいてさ。あの女、ずーっと“彼、ちゃんと子育てしてくれると思うんです”って話してたよ。“二人で育てるって決めたんです”って、ずっとにこにこしてて……怖ぇよ、あれ」
「……マジで俺、知らないんだよ。本当に」
「だよな……でもさ、なんかさ、ちょっと前から思ってたんだよね」
「なにを?」
矢野は視線を落として、少し声を潜めた。
「先週の会議でお前が使ってた資料、あれ、紙の裏に“パパへ”ってクレヨンで書かれてたの、知ってた?」
その瞬間、箸が止まった。食堂のざわめきが遠くなる。
「それ、どういう……」
「誰かのイタズラかと思ったけど、あれ子供の字だった。ガチのやつ。名前書いてあった。“ゆうま”って。……お前、心当たりある?」
矢野の声が消えると同時に、背後から「あっ……いた、パパ」という小さな声がしたような気がして、俺は振り返った——が、そこには誰もいなかった。
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