第2話「一時間…」

「危険な橋を渡る気になったか」


源さんは煙草に火をつけながら、冷ややかな目で宗太を見た。薄暗い喫茶店で向かい合うのは、前回の別れから数日後のことだった。宗太は、あの夜から眠れない日々を過ごしていた。頭の中で、巨大な歯車が回り続けていた。


「…ああ。覗くって決めた」宗太はテーブルに置かれた自分の手をじっと見つめた。まだ震えているわけではないが、体の奥底に、冷たい不安が巣食っているのを感じた。「あんたの…噂の話、冗談じゃないってことだろ?」


源さんは煙をゆっくりと吐き出した。「冗談だったら、もっと面白い話をするさ。あれは、一部じゃまことしやかに囁かれてる話だ。だが、それを鵜呑みにして首を突っ込むのは、自殺行為に近い」


「それでも、知りたいんだ」


宗太の言葉に、源さんはわずかに目を見張った。すぐにいつもの無表情に戻ったが、宗太は確かにその変化を見た。


「…まあ、止めはしねえよ。俺はあんたの保護者じゃない。だが、無策で行っても犬死にするだけだ。少しは役に立つ情報をくれてやる」


源さんは上着の内ポケットから、くしゃくしゃになった紙切れを取り出した。そこには、手書きの簡単な地図と、いくつかの走り書きがあった。


「ここが、例の場所だ。街から離れてるから、車で行くしかない。敷地は広い。塀も高いし、監視カメラも多い。だが、完全に死角がないわけじゃない。特に…」


源さんは地図のある一点を指した。「裏手の、古い搬入口のあたりだ。普段は使われてないが、警備が手薄になる時間帯がある。夜中の二時から三時。その一時間だけだ」


「一時間…」


「それ以上いるのは危険だ。見つかれば、あんたは『いなかったこと』にされるだろうな。連中はそういうのを専門にしてるんだから」源さんの声には、何の感情も篭っていなかった。それが逆に、言葉の重みを増した。


「内部は複雑だ。冷凍庫、解体場、加工ライン…普通の屠殺場にあるもんは一通り揃ってる。だが、あんたが見たいのは、そういうもんじゃないだろう」


源さんはもう一枚の紙切れを宗太に渡した。それは、簡略化された建物の見取り図らしかった。


「この点線で囲まれたエリア…特にこの『F区画』。普段は立ち入り禁止になってるらしい。ここが、あんたが探してるもんがある場所だろう。どうやって入るかまでは知らん。鍵か、暗証番号か…そこは自分で探すしかない」


宗太は地図と見取り図を握りしめた。紙越しにも、冷たい現実の重みが伝わってくるようだった。


「それと、これを持っていけ」源さんはテーブルの上に、古びた小型の懐中電灯と、手のひらサイズのデジタルカメラを置いた。「暗いだろうし、証拠は必要だろう。だが、絶対に捕まるな。あんたが捕まれば、俺も…まあ、面倒なことになる」


源さんの目に、初めてかすかな警告の色が宿った。


宗太は頷いた。「分かった」


別れ際、源さんは宗太の肩に手を置いた。その手は、想像していたよりも冷たかった。


「あんたが何を目撃するのかは知らん。だが、一度見てしまったら、もう元には戻れねえぞ。それでも、行くのか?」


宗太は源さんの目を見た。迷いはなかった。あの夜以来、彼の心は既に、日常から切り離されてしまっていたからだ。


「…ああ。行く」


数日後、宗太は借りた軽自動車を、地図に示された場所から少し離れた森の中に隠した。深夜二時。街の光は遠く、空には星が凍えるように瞬いていた。


屠殺場は、闇の中に沈黙していた。巨大な影が、不気味な存在感を放っている。高くそびえるコンクリートの塀には有刺鉄線が巻かれ、ところどころに監視カメラが赤く点滅していた。源さんの言う通り、裏手の搬入口付近は、他の場所に比べてカメラの数が少なく、死角も多かった。


宗太は深呼吸をした。心臓が不規則に脈打っている。体の震えを抑えながら、懐中電灯とカメラをポケットに押し込み、塀の根元を伝ってその搬入口へと向かった。錆びついた鉄扉は固く閉ざされていたが、その横にある小さな通用口の鍵が、源さんの情報通り、脆くなっていた。ピッキングツールなど持っていない宗太は、手近な石を使い、強引に鍵穴を叩き壊した。


ガチャリと、乾いた音が闇に響いた。宗太は凍りついたが、何も起こらない。警報も鳴らない。用心深く扉を押し開けると、そこは薄暗い、埃っぽい通路だった。鼻腔を突き刺すような、鉄と血と、何か言い知れぬ異臭が混じり合った匂いがした。


宗太は懐中電灯の光を足元に落とし、静かに内部へと足を踏み入れた。扉を閉め、闇に目を凝らす。


通路は奥で大きな空間に繋がっていた。懐中電灯の光をゆっくりと回すと、そこは広大な倉庫のようだった。天井からは無数のフックが吊り下がっており、壁際には大型の冷凍コンテナが幾つも並んでいる。


「F区画…F区画はどこだ?」


宗太は源さんからもらった見取り図を思い出しながら、目的のエリアを探した。倉庫の奥に進むにつれて、冷気が肌を刺す。冷凍コンテナの一つに近づくと、扉には霜が張り付き、「-40℃」と書かれていた。その横には、マジックで乱暴に「牛」「豚」「鶏」といった文字が書かれている。


さらに進むと、通路の突き当たりに、他の扉とは明らかに異なる、分厚い金属製の扉があった。その脇には、テンキー式のロックパネルが設置されている。扉の上には、見取り図にあった「F区画」という文字が小さく書かれていた。


ここだ。宗太の心臓がドクンと跳ねた。


テンキーパネルを前に立ち尽くす。暗証番号など分かるはずもない。他の入り口を探すか? いや、源さんはここを指した。何か、別の方法があるのか?


壁やパネル周辺を懐中電灯で照らしながら、宗太は注意深く調べた。すると、パネルの隅にある小さなカバーの下に、隠されたカードリーダーがあるのを見つけた。そしてその近く、壁のごくわずかな窪みに、クレジットカードのようなものが挟まっているのを見つけた。


宗太は震える手でカードを取り出した。それは何の変哲もないプラスチックのカードに見えたが、表面には無数の傷がついていた。これを、あのカードリーダーに通すのか?


躊躇いは一瞬だった。宗太はカードをカードリーダーに差し込んだ。


ピー…という電子音と共に、緑色のランプが点灯した。扉のロックが解除される音が響く。


宗太は唾を飲み込んだ。扉は、ゆっくりと内側へ開いていく。


その先に広がっていたのは、完全に無機質な、鉄とステンレスで構成された空間だった。強烈な冷気が、宗太の体を襲う。部屋の中央には、見たことのない形の機械が設置されており、その周囲には、人間ほどの大きさの、白い、厚手のビニール袋に包まれた物体が、幾つも積み重ねられていた。


まるで、巨大な肉の塊をそのままパックしたかのように、それらは無造作に置かれている。しかし、その形状はあまりにも不自然だった。丸みを帯びた部分、細くなった部分…それは、動物のそれではない。


宗太は懐中電灯の光を一つの袋に当てた。白いビニール越しに、うっすらと何かが見える。それは、人間の…腕か?


恐る恐る、宗太はカメラを取り出し、その光景を記録しようとした。シャッターボタンに指をかけた、その時だった。


遠くから、金属が擦れるような、鈍い機械音が響いてきた。そして、その音に混じって…低く、まるで生き物が呻いているかのような、不気味な音が聞こえた。


宗太の体は硬直し、指はシャッターボタンを押せないまま止まった。その音は、F区画のさらに奥、見取り図には何も示されていなかったエリアから響いてくるようだった。


屠殺風車。巨大な歯車が、今この時も、何かを刈り取り、粉砕している。そしてその「何か」は…


宗太は、自分が足を踏み入れた場所の本当の悍ましさを、初めて全身で理解した。恐怖が全身を駆け巡り、逃げ出したい衝動に駆られたが、足は地面に縫い付けられたかのように動かない。


あの噂は、真実だった。そして、その真実のさらに奥で、この「屠殺風車」は、今もなお…


(続く)

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