サイコロが落ちる音
自己否定の物語
第一章 音に気づく者
朝から雨が降っていた。
カーテンを閉じきった部屋の中で、鈴村凪はベッドの中から動けずにいた。もう何日、外に出ていないのか。カップ麺のゴミが三つ、ペットボトルが五本、床に散乱している。冷蔵庫は空っぽで、電気ポットの水もとうに尽きていた。
それでも、空腹は感じなかった。というより、どうでもよかった。
スマホには「就労支援員からのお知らせ」の通知が残っている。開かないまま、画面をスリープに戻す。
(今日も、別に何も変わらない)
そう思ったときだった。耳の奥に、妙な音がした。
──カラ……ン。
何かが転がるような、硬質な、軽い音。だが部屋の中には何もない。冷蔵庫の中身も、テレビも、ポットも音を立てるはずがない。
凪は起き上がり、耳をすませる。だが、もう何も聞こえなかった。
「……気のせいか」
つぶやいてから、ふと思い立ち、久々に着替えた。冷えたジーンズとよれたパーカー。玄関のドアノブにはほこりが積もっていた。
アパートの階段を下り、近所のコンビニへ向かう。街はいつも通りのように見えた。
それでも──奇妙な違和感が、空気の中にあった。
交差点の向こう、制服姿の高校生が一人、ふと立ち止まった。ポケットから何かを取り出し、手元でちらりと見て、それから方向を変えて歩き出す。
凪の目には、彼の足元で透明なサイコロが跳ねたように見えた。
──カラ……ン。
耳鳴りではない。たしかにそこに、音が存在していた。だが、周囲の誰もがそれに気づいた様子はない。
(まさか、な)
目を擦って、首を振る。見間違い、疲れ、幻覚。理由ならいくらでもつけられる。
けれどその日から、凪は“何度も”その音を聞くようになった。
バス停で女の子が急に泣き出す。
駅でサラリーマンがホームから離れて踵を返す。
コンビニで子どもがアイスを落とす。
そのたびに──カラ……ン。
(……見えてるの、俺だけか?)
違和感は確信へと変わっていった。
凪はPCの前で「人 行動 サイコロ 見える」などと検索したが、何の情報も出てこない。ネットの海は、答えをくれなかった。SNSで探しても、似たようなことを言っている人間は一人もいなかった。
誰かに相談しようと、久しぶりに実家に電話をかける。母親の声が受話器越しに響いた。
『あら、元気にしてる? 最近どう?』
「……うん、まあ。なんかさ……変なもんが見える気がして」
『なあに、またゲームのやりすぎじゃないの? そういうのは、疲れてる証拠よ』
会話はすぐに終わった。凪は黙ってスマホをテーブルに置き、ため息をついた。
夕方、ベランダから街を見下ろす。空は灰色で、風もない。だが、下を歩く人々は出目に従って動いているようにしか見えなかった。
誰もが、「怒る」「笑う」「道を変える」「ため息をつく」──
そのすべてが、何かに“指示”されたかのように機械的だった。
(……振らされてる)
凪の唇が、ひとりでに動いた。
翌朝、彼は鏡の前に立ち、自分の顔を見つめた。眠れぬ夜のまま、目の下に濃い隈ができている。
そして──彼の右手が、ポケットへと動いた。
何も入っていないはずのその場所に、彼は“確かな重み”を感じた。
無意識のまま、凪は手を掲げ、空中で振るようにして──投げた。
サイコロは見えなかった。
だが、耳にはっきりと音が届いた。
──カラ……ン。
音に気づいたのは、世界でただ一人だった。
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