路地にて
都心の路地裏で、汚らしい騒ぎ声がする。金属音や鈍い叫び、呻き声が混じっている。大通りまでは聞こえず、けれど確かに助けを求める声がその中にあった。
ネズミの出入りが盛んな通りに、閑散としたレストランが佇んでいる。その裏手にあるゴミ捨て場に一人の男が横たわっている。男は全身が見窄らしく、靴や服は破れ、その瞳は虚空を見つめていた。
カンカンカン、と金属音が路地裏に響く。レストランの裏口から、一人のシェフがフライ返しでフライパンを叩いている。シェフはわざとらしく音を立てながらガムを噛んでおり、ゴミ捨て場を一瞬眺めるが、すぐに逸らしてしまう。
シェフは足元に転がっているりんごの芯を、何度か垂直に蹴り上げる。シェフが蹴り損ねたりんごの芯はそのまま水平に飛び、男へと当たる。シェフは依然としてフライパンを鳴らす。
「俺の可愛子ちゃんたちよ。出ておいで」
シェフはガムを吐き捨て、どこか遠くを眺めながら大声でそう言った。シェフは銀の平皿に積まれたドッグフードを足で路地裏に配置する。
男はその見窄らしい身体を震わせながら懸命に起こすと、平皿の上のドッグフード目掛けて飛びついた。目には赤く血が走り、歯を剥き出し、よだれを垂らしている。まるでシェフが見えていないかのように、周囲を憚ることもなく、ドッグフードを食べている。
シェフは、皿の外まで飛び散らしながら食べている男を眉ひとつ動かさずに見つめている。そして、逸らすこともしない。
そこへ野生的な唸り声が路地裏を支配する。数匹の野犬たちが喉を震わせシェフと男を凝視する。シェフは野犬に気がつくと男から視線を外し、裏口の扉を閉めてレストランへと戻っていく。
皿と顔がくっつくほど近くまで寄っている男は野犬に気が付かない。四つ這いで皿へ向かう男へ、男と似たように充血した目の野犬が飛びかかる。
野犬が、ボロボロの男の衣服を襲う。男は噛みつかれてようやく野犬に気がついたのか、目を見開き驚嘆の声を上げた。
身体を揺らし、丸くして、叫び声を上げる。男は銀の皿を手に掴み振り回す。瞼を閉じ、目尻に皺を寄せる男の視界に犬はおらず、皿は空を切り、地面を叩きつけ、金属音が静かに響く。
それでも必死に男が振り回していると、一匹の犬の顔に勢いよくぶつかる。野犬は高く弱々しい声を上げながらどこかへと逃げていく。その一匹に付いていくように、すべての野犬が男の前から姿を消した。男は野犬がいなくなってもなお腕を左右上下に振っている。
男は何度か空を切り、ようやく動きを止め、ゆっくりと瞼を開けた。そこには犬もシェフもいない。静寂の路地裏で男は何度か周囲を見回す。どこかから野犬の遠吠えが聞こえる。男はその声に追われるように路地裏から逃げ出した。
裏口の扉は少しだけ開いており、その隙間からシェフが男の後ろ姿を見つめている。よろよろと歩く男が表の通りまで行くのを、ただじっと見ている。
表の通りにはいくつかの露店が建ち並び、煌々と降り注ぐ太陽の光を受けた人々が活気を感じさせる。八百屋の店主は子連れの主婦にりんごをおまけし、靴磨きの小遣い稼ぎは心地よい相槌を、曲芸師は笑みを崩さぬまま踊っている。
「おじさん、ありがとう」
りんごを貰った子は乳歯の抜けた口を目一杯開いて笑った。つられて店主と主婦も頬を緩ませる。次の店へと歩き出した時、りんごだけを両手で大切に抱える子が地面に躓き転ぶ。その拍子にりんごも転がり、靴磨きの元へ届いた。
「坊や、これは君のものかい。はい、どうぞ」
靴磨きは子に明るく言って、りんごを渡す。しかし、転んだ痛みからか子は目を濡らし今にも泣き出しそうであった。主婦は慌てて駆け寄り、靴磨きと客に頭を下げる。靴磨きもまた主婦に頭を下げた。
その頃、少し空模様が曇り、気が付かないほどの雨が降り始めた。それに気がついた人々は帰路につき、気にせぬ者たちは通りを行ったり来たりしている。
通りの活気とは裏腹に客入りの悪いレストランの前に、空気の抜けたような、何か倒れる音がした。見窄らしく、汚れた格好の男が横たわっていた。
りんごを大切に抱えた子は主婦の買い物に飽きたのか、露店の脇で座り込んでいる。主婦が店主と談笑をしている少し奥、レストランの前に倒れ込んでいる男が、子の視界に映る。
子は不思議そうに眺め、人差し指を口に咥えている。次第にそれを見ることにも飽きたのか、空を眺めて欠伸をしていた。
「ママ、雨降ってるよ」
「え、あら。ほんと」
言われて主婦はようやくわずかな雨に気がついた。そうして、小雨が少し強まり帰宅しようとする人々が増えた時、通りに大声が響く。
「大丈夫ですか」
立派なコック帽に、白の服。髭ひとつない清潔な顔が料理人の雰囲気を増していた。
シェフは横たわる男を揺すりながら声をかける。周囲の人々はようやく顔を二人へ向けた。シェフは店に戻り、すぐにまた出てきた。手には銀の平皿、そこにはオムレツが乗っていた。
僅か数秒の間に用意されたオムレツを、男は意思も曖昧なまま口へと入れる。皿の隅にはドッグフードの欠片がついていた。拍手喝采。シェフを讃える人々の声。
中には感動の涙を流す者もいた。偶然その場にいた新聞記者は料理を提供するシェフを写真に収め、急いでペンを走らせる。主婦や店主は必死に手を叩いていた。子はそんな母親を首を傾げ、指を咥えて見つめていた。
「皆さん、彼はもう大丈夫です。あとは私に任せてください。どうぞお気をつけてお帰りください」
シェフはそう言いながら男を担ぐように店内に運んだ。そしてドアに閉業中という札を立てる。
人々はまた笑いながら帰路につく。雨はまた強まり、いよいよ小雨ではなくなった。
しばらくして、男はまた路地裏のゴミ捨て場にいた。カンカンカンとフライパンを叩く音と共に裏口が開く。銀の皿にドッグフードとりんごの芯が置かれている。
男はまた飛びかかる。しかし、今度は皿ではなくシェフに。
「なんだよ、またタダ飯食わせろっていうのかよ。おいおい、そんな目するなよ」
シェフは面倒くさそうに男を足払いし、店内へ戻っていった。店は以前よりも活気があり、ほとんど満席であった。
路地裏に残された男は立ち尽くしている。風が舞い、捨てられた新聞紙が男の顔を覆った。突然のことに男は驚き、新聞紙一枚に取り乱す。
「奇跡のレストラン。愛が貧困を救った」
新聞の片隅にあるコラム。その冒頭のキャッチコピーにそう書かれていた。男は強風によって押し付けられた新聞紙をうまく剥がせずにいる。
ドッグフードを野犬が忙しそうに食べており、皿の上にはりんごの芯だけが残されていた。
Kの短編集 K @kkk1717
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