微熱
金はない。人望もない。だが時間だけはある。孤独な大学生は何をすれば良いのだろう。場違いのカフェから逃げ出し、期間限定の暖かなコーヒーラテを片手にそんなことを考えていた。
悴んだ手にコーヒーは少し熱く、両方の手で熱を交互に逃しあっている。都会の隅にはどこにでも寂しげな公園がある。都市の思惑とは異なり、そこには陰鬱な顔の人々が集まる。
その日も子供の声などは聞こえず、こんな都会のどこにいるのかというほどの老人が集まっていた。ベンチに腰掛け、ようやく持ち替える必要のなくなったコーヒーを一口飲む。
「あち」
思わず声が出るほどで、舌がヒリヒリとしている。顔を上げると老人たちがこちらを睨んでいるように見えた。人生の佳境は過ぎたろうに、どうして若者を睨むのか。執拗にコーヒーを冷ましながら、頬をかいた。
老人たちは曲がった腰からは想像もつかぬバイタリティで、ゲートボールに夢中であった。老人のうちの一人が、公園の地面の段差で自由に跳ねる球に文句を言っている。その声を聞いて、足を閉じ、顔を俯けた。昼間に何もしていない自分が叱責されている気がした。
そのとき、大きな声が公園に響いた。その声は鋭かったり鈍かったりとさまざまである。犬を連れた主婦団体が甲高い声で会話している。薄暗い今日の天気など見えていないのかのように、自分たちの世界を作り上げている。
犬も主婦も、好き勝手に喋っていた。側から見るとどうして会話できているのか不思議でならなかった。誰一人犬に構うことなく、犬もまた人間には興味を示さない。一つの空間にいながら、二つの集団となっている。
ぼーっと集団を眺めている時、一匹の犬がこちらを睨んでいた。いや、睨んでいないかもしれない。とにかくこちらを見つめていた。目先を細め、歯を見せ、生ぬるい息を不規則に吐いている。思わず視線を逸らした。届くはずのない絶妙な獣臭を感じて、目を顰める。
その犬が突然駆け、老人たちの元へ突っ込んでいく。主婦はリードを握っていないどころか、犬を見てもいない。何人かは気がついていたようだが、焦りの顔は見えなかった。心臓の鼓動が速くなり、唾を飲んだ。ベンチに腰が張り付き、ただコーヒーのカップを強く握る。カップは想像よりも無機質で、熱を伝えようとはしない。
老人たちは未だに公園に文句を言っており、ゲートボールは停滞している。地面に生えている雑草を抜いていたり、踏み潰して整地していた。
土の上では足音ひとつ響かず、老人たちは犬に気が付かない。しゃがみ込み、雑草を黙々と抜く老人へと犬が飛びかかった。顔を逸らし、目を閉じて、衝撃に備えるかのように体を丸めた。
聞こえてきたのは笑い声だった。瞼を開けては閉じる。何度か繰り返したのちに顔を上げた。腰を地面について仰向けの老人のお腹に、犬がその全身を預けていた。
飼い主と思われる主婦は、ゆっくりと歩きながら老人に近づき、笑いながら頭を下げる。周囲の老人たちも頬を緩めている。
その時、ズボンがずぶ濡れになっていることに気がついた。先ほど溢したコーヒーが右足に染み込んでいた。そこまで経ってその熱さに気がつき、声を上げずにもがいた。
熱さを誤魔化すために、濡れたズボンをペチペチと叩いた。手が少しずつ濡れていくのがわかる。手が冷えるのとは対照的に顔が熱くなった。
ゲートボールを見ることも、主婦の会話を聞くことも、犬を見て微笑むこともできずに耳先を赤くする。
熱が取れ、ゆっくりと顔を上げた。ある老人は犬と戯れ、ある老人は雑草を抜き、ある老人は文句を言っている。主婦たちは間違いのない笑顔で過ごしている。ただ一人自分だけが、声を上げることもなく陰鬱な顔でベンチに座っている。
顔を上げて、空を見た。青と白。眩しかった。小さく微笑み、立ち上がり、カフェを目指した。
カフェで先ほどと同じコーヒーを一回り大きなサイズで注文した。店員は穏やかな口調であった。席につき、コーヒーを口にする。やっぱり熱い。けれど、飲めないことはなく、その方が美味しかった。
木製の机は柔らかく、照明は優しい。店内はタイピングの音と他愛もない世間話で満たされている。
ふと、カップを見ると隅の方に文字が書かれていた。
「本日二度目のご来店ありがとうございます」
角がなく丸み帯びたその文字列の先には可愛い表情のニコニコマークがあった。その文字に触れ、なぞった。まだ書かれたばかりの文字は、指先に合わせて、綺麗に滲んだ。
誰が書いたのか気になって店員に視線を向ける。オレンジが僅かに含まれた茶髪に、お団子ヘア。支給されたであろう緑色の制服。輝く瞳は大きく、過度ではない化粧が、素朴さを感じさせる。ちらちらと見ていると、目が合った。店員は少しだけ口角を上げてすぐに目線を移した。
この短時間に二度も同じコーヒーを頼む人間はおかしなものだ。誰にも聞こえないぐらいの声で、笑った。
近くの女子高生はもっと大きな声で笑っていた。端に座る会社員は堂々と電話をかけている。お婆さんは周囲など気にすることもなく文庫本を読み、レジに並ぶ男性は注文の仕方がよく分からずに戸惑う。口を開け、もう少し大きな声で笑った。
右隣の女性はイヤホンをしており、こちらを見ることもしない。左隣の男性は見たこともないキャラクターの動画を再生しながらスマホを凝視している。
コーヒーは熱が取れ、飲みやすい。先ほどの熱いコーヒーも好きだが、このコーヒーは喉を潤してくれる。何より、この時間が安堵であり落ち着きをもたらす。
口角は吊り上がり、目は煌めく。カップを優しく握り、滲んだ文字をいつまでも眺めていたかった。入店と退店、電話話に世間話。それと笑い声。カフェという一つの集団の音は柔らかく響く。
金もない。人望もない。それでも、暖かなコーヒーを飲み、落ち着く時間がある。
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