池の底で

 男がワニと向かい合って座っていた。周囲には人の気配どころか生き物の気配ひとつない。微かな木漏れ日と清廉な池が神秘めいている。男は倒木に寄りかかり、池に片足だけを踏み込みワニと対峙している。冬の訪れを感じさせる風が山の木々を揺らし、池の水面に模様を作り出す。

 ワニは硬質な深緑の皮膚のほとんどを水中に沈めており、その鼻先と鋭い目だけが浮かんでいるように見えた。ワニは音も立てず、波も立てず、静かに男へ近づいた。もはや手を伸ばせば届く距離になっていたが、男は逃げるどころか身じろぎひとつない。

 屈強な男は分厚い顎髭をそっと撫でながらワニを見つめる。男は池に浸かっていた足を抜き、胡座でどっしりと構えた。腕を組み、ワニを見つめながら石像のように固まって動かなくなった。

 足を抜いたときの波紋がワニの鼻先と目を濡らす。ワニも距離を詰めることを止め、男を見つめるばかりであった。二人の間に深い静寂が訪れた。

 動くことのない男は、目尻に皺を寄せ、額に汗を浮かべる。ワニも僅かばかりの波を立て、小さく揺れ動いていた。

 静寂を破ったのは不穏な金属音であった。男は分厚い手で短刀をきつく握りしめている。それを見ていたワニも静かに動いた。水面が揺れる。目と鼻先だけでなく、鋭利な歯を持つ口全体が水の外にあった。

 男は立ち上がり、短刀を握る手には汗が滲んでいた。男が少しばかり後退りをすると踵が倒木にぶつかった。男は目を細めながらも口角を緩ませた。

 その刹那、水飛沫が宙を舞った。水中にあった全身のほとんどが飛び出た。ワニの体は水を破り、真っ直ぐ男へと向かった。それに応えて、男も後ろへ飛び跳ねる。倒木を挟んで両者は緊張に包まれた。

「なるほど、噂通りの人喰いワニか」

 おどけた口調であるが、表情は苦しそうであった。男の身体が震えており、それが恐怖なのか武者震いなのかは男にも分からなかった。

 先ほどまでの静寂が嘘であるかのように、ワニはけたたましく咆哮した。そしてそれは声にとどまらず、倒木をも飛び越えてくる身体が森全体を轟かせているようであった。

「俺も人はよう殺してきたんじゃ」

 男は目と口を可能な限り開き、そう叫ぶ。迫り来るワニのその鋭利な歯を左腕で受け止める。深緑の皮膚が血飛沫をより鮮明にさせる。男は顔を大きく歪め、絶叫した。理性とも本能とも取れぬ判断で右手に持つ短刀をワニへ突き立てた。深緑の皮膚にもう一つの血液が流れた。

 ワニは飛び跳ねるように後方へ転がる。男は左腕の痛みを感じさせぬ勇猛な顔つきで、仰向けの腹に短刀を突き刺した。何度も突き刺し、分厚い顎髭が赤に染まった。

 男はワニを突き刺すたびに目を絞るように細め、歯軋りしながら苦しんだ。

 動かなくなったワニを、男は片方の手で引きずり、倒木を乗り越え、元いた池へと戻した。池はワニの血で染まり、赤の模様を作り出した。男は、腹を上にして水中に沈むことなく浮かんでいるワニを見ていた。笑うでも悲しむでも、怒りでもなく、男は虚な目で呆然としていた。


 日が沈み始め、空が赤く染まる頃に、男は村を目指して下山し始めた。血の滴る左腕を押さえ、今になって大きく顔を顰めている。

 次第に雨が降り始めた。雨は男の血を洗い流したが、同時に体温も奪っていく。雨で地面はぬかるみ、男は何度か足を取られて転ぶ。気力も体力も限界に近かった。

 とうとう倒れ込んだ男は瞳を閉じて、そのまま楽になってしまいたかった。起き上がるための腕は負傷し、体は冷えるばかり。夜が深まればさらに気温は下がっていく。

 そのとき、雨音に混ざって泥を踏み分ける足音がした。足音は煙草の匂いを纏っており、山の匂いを異質にした。

「おい、どうした。大丈夫か」

 二人の老人が男の元へとやってきた。老人は二人とも厚手の格好をしており、頭には笠、腰には長筒の猟銃を抱えていた。

 老人は男が左腕に傷を抱えているのを見て、すぐに人喰いワニの仕業だと気がつき、猟銃を構えて周囲を警戒している。

 雨音と泥の匂いが漂う山中で猟銃の音が異質に響く。老人は男を静かに抱き上げ、村へ連れて治療するために、背負った。

 その時、男は目覚め、傷を庇うこともなく暴れ始めた。左腕からは血が滴り、目は充血し、掠れた声がこだました。

「おい、おい。こいつは」

 周囲を警戒していたもう一人の老人が男の顔を見て、声を荒げた。老人の顔に先ほどまでの憐れみはなく、青ざめている。

 男は残っている命の全てを削るかのように、老人には見えぬ何かと、怯えた顔つきで戦っていた。

 あまりに暴れるものだから背負っていた老人は仕方なく男を下ろす。そして、その時もう一人の老人も男の存在に気がつき、声を詰まらせた。

「こいつは、あの、逃げ出した死刑囚か」

 いよいよ本格的に夜が始まるという頃、雨と風が森のざわめきを演出し、大地の香りは泥臭く、雲が星々を隠す。

 その時に、一つの大きな音が鳴り響いた。その音は雨音や風を置き去りにし、山全体を支配した。そして、その音の正体が、男の脇腹を貫いた。

 老人の手に持つ銃口からは煙が上がり、山は驚くほどの沈黙に包まれた。その直後、男は痛みに悶絶しながらも、身体を揺らして老人達から逃げた。足取りは不安定で、何度か泥に足を取られて転んだ。

 老人達も深く追うことはせず、老人の手にぶら下がる銃は小さく震えている。その煙だけが、揺らぐことなく真っ直ぐと空に登り、雨に消えていった。

 男は考えも持たぬまま逃げ惑い、気がついた時には、池の前の倒木に倒れ込んだ。隙間風のような呼吸音と、隠すこともできない血まみれの身体は既に限界を超えている。

 男の視線の先には、腹を浮かべて、動かぬワニ。美しい池も、血と泥が混ざり合い、不穏な色をしている。男は這うように倒木を進んだ。

 右腕と、疲れ切った両足を最大限に動かして少しずつ進んでいく。そうして池に手が触れ、顔が触れ、とうとう全身が収まった。男は左腕でワニの腹を撫でながら、絶命した。

 翌朝になると、雨は上がり、朝日が木漏れ日となって池を照らす。池には依然として二つの死体が浮かんでいた。その横の倒木には、小さな白いキノコが生えている。

 まだ冬が本格的に始まる前の、穏やかで少し暖かい風が池の水面を揺らしていた。

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