名を呼んではいけない

如月幽吏

第三十六節 コトダマ

口は災いの門という

けれど その門を開けたのは

誰だったか 覚えているだろうか


囁いただけで 風が止まり

唱えた言の葉は 庭の犬を黙らせた

昼なのに 空が反れ

木々の影が 耳を塞いだ


わたしの声ではなかったと

言い訳をしても 遅かった

音は返らず ただ

響いた “いない”のに “聞いている”という気配


誰かの名を呼んではならぬ

そう教えたはずだった祖母の遺言

破りしその日から 言葉は刃(やいば)となり

わたしの舌に宿りはじめた



何気ない声ですら 部屋を歪め

紙に書いた文字すらも

夜の隅で勝手に囁く


そして昨夜——わたしは名を言った

鏡の前で三度、慎ましく

すると 鏡は黙って

「その者」の声を返してきた


いまではもう

沈黙ですら意味を持つ

言葉を吐くたび 世界が応える

わたしは言霊に抱かれている

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