第12話
(十二)
月曜日からは、またいつもの暮らしに戻る。
藤田教授から、年明けに石川工業の取締役会があり、約束の脇田社長との懇親会をと誘われた。断る理由はない。また、佳織が一緒に行きたいと言っているようで、前日は四人で会食、翌日は佳織に金沢を案内してくるように頼まれた。それも断る理由はない。
佳織も思い切ったことをする。
金曜日、東山のスケジュールに新しいクライアントの予約が入っていた。電話を受けた仁科さんに何か情報がないかと尋ねてみると、原田という少し年配の男性で、東山を指名してきたと言う。
原田という名前で年配というと、佳織の不倫相手がまず頭に浮かぶ。東山を指名してきたとなると何か目的があるのかもしれない。
予約時間の五分前にその原田が東山を訪ねてきた。
中高年の男性の相談も少なくはない。いわゆる燃え尽き症候群だったり、定年を迎えての目標喪失やアイデンティティ喪失。最近多いのが企業側からの退職勧奨により心ならずも辞めざるを得なくなった場合の自信喪失である。
ひと昔前に話題になったのだが、会社人間、仕事人間が会社を離れると、自分を定義できるものが何一つなくなり、心を病むケースは多い。そんな一人なのかもしれない。
「どうぞおかけください」
東山は柔らかく、また、年長の相手への敬意を示しながら席を勧めた。
「原田様、まず最初にお約束をしておきます。あなたがこれからどんなお話をされても、その内容があなたの許可なく外部へ洩れることは一切ありませんので、ご安心下さい」
いつも通りに説明をする。
「そして、より正確にあなたを理解するために、質問をさせていただくこともありますが、答えたくないこと、答えにくいことにはお答えいただく必要はありません」
原田は黙って頷きながら東山の言葉を聞いていた。
「さて、今日はどのような心配事、或いはお悩みでお越しになられたか聞かせていただけますか?原田さんが話しやすい内容からで結構です」
それまで、東山を瀬踏みするような視線を向けていたが、ようやく笑顔を見せる。
「東山さん、今日伺ったのは、実はカウンセリングをお願いするためではないのです」
「と仰いますと」
「あなたにお会いしたくて、カウンセリングという口実でお時間をいただきました」
「そうですか」
「この期に及んで隠し立ても致しますまい。藤田佳織さんの件で。ご存知でしょう」
「藤田佳織さんの件」
「なるほど、カウンセラーとしては個人情報の観点から何も言えないのでしょうね。いや、結構です。私が勝手に話します」
そして原田は少し他人事のように佳織との三年間について話し始めた。そこには、いくらか東山に遠慮する気持ちもあるようだ。
おおよそは佳織から聞いていた内容と一致しているが、いくらか原田の思いについては、佳織の理解とは異なる点もある。
やはり、一旦カウンセラーとして向かい合うと、あるがままの原田を受け止めて行くだけである。ひょっとすると、本当に原田が悩んでいるところがあるのかもしれない。事実は事実として受け止め、原田の思いもしっかりと傾聴していく。
「という訳で、私の退職を最後に、彼女との縁も終わらなくてはいけない、というよりも、彼女にはどうしても幸せになってもらわないといけないと思っているのです。彼女からは将来のこととして東山さんのことを聞いております」
「なるほど」
「それが本当のことなのか、つまり私を安心させようとしての嘘ではないか。そして本当なら、失敬千万ではありますが、あなたがどういう方であるのかを知っておきたかったのです。まあ、父親のような気持ちと思ってお許し下さい」
一応、話の筋は通っているようだ。しかし、と、ちょっとした疑問も湧いてくる。
佳織と原田の年齢の違いや、佳織のファザーコンプレックスの面からも、父親としての気持ちというのも分からなくはない。ただ、それだけで東山に会いに来るだろうかというと、どう考えても不自然ではある。
原田の行動には、東山に自分の存在を知らしめたいという欲求があるようにも思える。それは、東山を通じて佳織にその存在を伝えたいのかもしれない。
常識的には、大きな問題とならずに不倫関係を解消できることは望ましいことである。まして、その相手が嫁ぐことになり、後の心配も必要ないとすればなおさらである。無かったことにしてしまいたいのが人情であろう。
更に、佳織の将来を思うならば、佳織の立場を悪くしないために、問われても否定するのが分別である。それを佳織を頼むという態度ではあるが、わざわざ自分の存在を明らかにしているのである。
何かその奥に、原田を突き動かしている別の要因がありそうな気がするのだ。
ただ、このまま東山が通常のカウンセリングに入ることは難しい。既に、原田と東山の間には一つの関係性ができ上がっている。
「原田さんのお考えはよく分かりました。今日、お話しいただいたことは、一切誰にも申し上げることはありません」
東山は、あくまでカウンセラーとしての立場を崩すことはしない。ただ、その一瞬に、原田の顔にちょっとした感情が現れたのも見逃しはしなかった。それは、ほっとしたようで、いくらか残念そうなものであった。やはり何かありそうだ。
「原田さんも長年勤めてこられた会社を離れるにあたって、いろいろお感じになるところもおありでしょう。お話になってみれば、また気持ちの整理もできるかもしれません。ただ、私が伺うわけにはまいりませんので、カウンセラーは変わります」
そう促すと、原田にも思い当たることがあったのか、否定はしない。
高杉のスケジュールを確認すると、ちょうどそれまでの面談を終えたところだった。
自分がカウンセリングできないことだけを伝えて、引き継いでもらえないかと依頼する。高杉は、そこには言えない理由のあることと、それでもその必要性があることを察して、すぐに承諾してくれる。
ものの三十秒程度の時間なので、東山が何かを詳しく伝達したとは思えないはずだ。
「こういう事務所ではカウンセラーは独立しています。これから高杉という者がお話を伺いますが、彼には何も伝えていません。そして彼も決してお話の内容を漏らすことはありません。仮に私が尋ねても。それがカウンセラーの守秘義務ですからご安心下さい」
原田を高杉の部屋へ案内しながら、ひと言だけカウンセラーの立場を離れる。
「東山個人として、佳織さんの期待には精一杯応えて行くつもりです」
立場を離れても、原田の心に要らぬ波風を立てるのは得策でないと考えて、あえて具体的なことには触れなかった。
後は高杉に任せるしかない。東山が感じた違和感が何であるのか、これから高杉との契約が続くのかどうか、東山の介入する余地はない。カウンセリングは不成立ではあるが、面談の要点だけをカルテに記入し、末尾に高杉に変更と記してファイリングする。
佳織がカウンセリングまがいのことをやっていると言っていたことを思い出したが、元々二人の関係性から言って、成立するはずはないのだと思う。
原田の佳織に対する未練なのか、燃え尽き症候群だったのか。いずれにしても佳織に全てを打ち明けることはできなかっただろうと思われる。
もちろん一人の人間としても、佳織との将来を考えている男としても、原田の心の中に何があるのかに関心はある。しかし、それを知ろうとすることも必要以上に考えることもしてはならないのである。それがカウンセラーとしての矜持である。
とはいえ、心のどこかに小さな異物が紛れ込んだような気持ちを拭えないまま家に帰る。
そんな東山の戸惑いを吹き飛ばしてくれるのは仁美の笑顔だった。
月曜から始まった自動車学校は新鮮な驚きの連続のようだ。東山が当たり前にこなしている運転が、今の仁美には神業のように思えるらしい。
世の中の誰もができていることで、すぐに仁美にもできるようになると励ましてやる。そして、約束通り仁美の運転でどこかへ連れて行ってもらおうと言うと、東山に怪我をさせて佳織に恨まれるのはご免だと笑う。
そしてその夜、東山は迷いながら再び仁美の部屋を訪ねた。
「パパさん、もう来てくれないのかと思って、昨日泣きました」
東山は仁美に辛い思いをさせるのではないかと気遣っていたのだが、仁美は全く次元の違うところで悩んでいたようだ。
次の日から、仁美の寝床は東山の隣になった。ウィークリーマンションでもずっと隣で休んでいたのだから違和感はない。東山のベッドの方が広いので寝心地もいい。
ただ、以前と同じように体を寄せ合っていても、その意味が少し違っている。それがあまりにも当たり前のことになってしまうことが、仁美が卒業するときの辛さを増していくことになりそうな気がするのだ。東山もいくら位置関係ができ上がっているとはいえ、愛情は深まって行くことになる。
かと言って、自分の胸で安心しきって寝息を立てている仁美を一人のベッドに追い返すことはできなかった。
翌週金曜日の昼に珍しく佳織から会いたいと言ってきた。ゆっくり話ができればというので、食事の後モリへ連れて行くことにした。
仁美にそのことを告げて、今日の夕食はいらないと伝える。
やはりちょっと言葉に詰まり、それでも佳織さんにも優しくしてあげて下さいと言う。
覚悟をしているとはいえ、仁美の悩みはこれからも深まるだろう。
佳織が話したいことというのは、おそらく原田のことだろう。東山のところへ嫁ぐ決心をしたとはいえ、これから迎える原田と別れが辛いことであるのは間違いない。
いつもの天満橋のホテルのレストランで夕食をすませ、馴染みの店を紹介したいとモリに向かう。
ドアを開けると変わらずにカランと乾いた音がして、いらっしゃいませと声がかかる。
いつもならママが気さくに声をかけてくるところだが、女性連れと分かってそれも遠慮がちなものとなる。以前、結婚相手を見つけたことも報告しているので、遠くから観察しているのだろう。
佳織を促してカウンターの一番奥に座る。
「落ち着いたお店ですね」
「ええ、見ての通り女の子の数も少ないので、適当に放っておいてもらえますし、カラオケもない。だから気に入っているんです」
「こういうところで人間観察をしてらっしゃるんでしょう」
「幾分はそれもありますが、折角のほっとする時間に、耳を覆ったり、女の子に気を使ったりするのでは何をしに来ているのかわからないでしょう。それが嫌なだけです。それに、あまり強い方ではないので、我を忘れて騒ぐほどは飲めませんから」
「あら、そうなんですか。馴染みのお店があるって、結構お飲みになるのかと」
「いいえ、アルコールは好きなんですが強くはありません。ですから、少しだけを美味しく飲みたいというところです」
バーテンダーの松本君が、佳織に何を飲むかと尋ねる。佳織は東山に何を飲むのかを尋ね、いつもブランデーのストレートだと言うと、同じものをと伝える。
「佳織さんは飲める方なんですか」
「いいえ。ほとんど」
「ストレートなんて大丈夫ですか」
「分かりません。でも、今日はちょっとお酒の力を借りようかなって」
小ぶりのグラスに三分の一ほどのブランデーが注がれ、二人で乾杯とグラスを合わせる。
「いい香りですね」
佳織は、ほんの少し飲んでみてそう言う。
「でしょう。これを水で薄めて飲むなんてもったいなくて」
「とても弱い方の言葉じゃあありませんね」
「ところが、いつもこれを三、四杯でギブアップなんですよ。それで何時間もいるわけですからお店にとっては有難迷惑かもしれません。まあ、そこは馴染みってことで」
「そう言えば、東山さんが酔ってるって姿、想像できませんね」
「酔っぱらうほど飲めませんから」
「やっぱり似た者同士ですか。私もこの年まで二日酔いをしたことがなくて。一度は経験してみたいのですけど」
「そりゃあいい。一度一緒に。ところで、お酒の力を借りてまで話したいことって」
原田のことであれば、佳織に対しても全て口をつぐむことになる。
「実は、彼のことなんです。先週、東山さんを訪ねてみたって」
「やはり。申し訳ありませんが、私はとしては何かがあったのかどうかから始まって、何一つお答えするわけにはいきません。また、佳織さんが何を仰っても、私はああそうですかとしか言えません」
「そうでした。守秘義務でしたっけ。カウンセラーの鉄則ですね」
「そういうことです」
「じゃあ、私は独り言を言います」
「それを止めることはできません」
「東山さんにもらっていただくことを決めて、私は彼に春になったら結婚するつもりだと告げました。早くそうしなさいとずっと言っていたのに、その時にはちょっと驚いていました。その相手はどんな人かと聞かれたので、私はありのままを伝えました」
「そうですか」
「きちんと話すことで、彼を安心させたかったんです。結果的にはそのことで東山さんにはご迷惑をおかけしたようで、すみません」
東山は松本にお代わりを頼む。いつもよりは少しペースが速いかもしれない。
佳織の言葉を聞きながら、やはり頷きも否定もできない。
「でも、素直に良かったと言ってくれました。その時に、いい加減な男では私を任せるわけにはいかないとは言ってましたけど、まさか会いに行くなんて意外でした。いくら私のことを半分以上娘のように思ってくれていたとしても、そこまでは」
佳織は、そう言って、またほんの少しだけブランデーを口にする。
「昨日の夜に電話をもらったんです。それで、彼が自分から東山さんに会いに行ったことを教えてくれました」
「そうですか」
「私が驚いていると、なかなか職業観のしっかりした男だとほめてました。私がそんなに私のことが心配ですかというと、やっぱり私には幸せになってもらわないといけないって」
「なるほど」
「彼にとっては私の将来がとても心配だったんだなあって。カウンセリングの真似事をしていても、そんなことは言ってくれませんでした。ごめんなさい、東山さんにとっては楽しい話じゃありませんね」
「佳織さんと彼という強い関係性のある間では、カウンセリングは成立しないものです」
「そうみたいです。でも、東山さんに会って随分ほっとしたって。もうこれで思い残すことはないだなんて言いだして、笑ってしまいました。やっぱり男の人にとって会社を離れるっていうのはとても大きなことなんですね」
東山は佳織のその言葉に引っかかる。
「思い残すことはない、と」
「ええ、彼にとっては私が唯一の心配材料だったようです。それが何か」
「ちょっと気になる言葉です」
「でも、そんなに深刻な言い方ではありませんでしたけど」
仁美に感じたものと同じ不安が心をよぎる。
仁美も金沢で、同じ言葉でここで終わってはいけませんかと言った。普通の心理状態で使う言葉ではない。まして、原田の行動には東山自身、違和感を持っていたのだ。
「ちょっと失礼しますよ」
東山はその場から高杉に電話をかける。三回の呼び出しで高杉が出る。
「高杉さん、夜分に申し訳ありません」
「いいえ、何か」
「先日、急にお願いしたクライアントの件で」
「ああ、やはり社長も引っかかりましたか」
「実は今、彼とも私とも近い方から、気になる言葉を聞きましてね」
「といいますと」
「話の流れかもしれないのですが、その方に、思い残すことはないと言っていたらしいのです。次の予約は入っていますか」
「月曜日の午前中ですが、実は私も、彼はその予約には来ないかもしれないと感じていたんです。それは気がかりですね。ひょっとすると危ないかも」
「そう思って、連絡しました」
「分かりました。当たってみましょう」
「私が出て行くわけにはいきませんので、高杉さんからうまく」
「承知しています。いずれにしても、状況が分かりましたら折り返しますが、社長は遅くなっても構いませんか」
「もちろんです。こちらが無理をお願いするのですから」
「私のクライアントです」
高杉も感じるところは同じだったようだ。
佳織も東山の考えていることが幾分理解できたようで、不安そうな顔に変わっている。
「いや、思い過ごしかもしれません。きっとそうでしょう。我々の職業病みたいなものですから。とはいえ、ここで待つわけにもいかないですね」
「はい」
ママに合図を送ると、一瞬、引きとめようとしたが、東山の表情からただならぬ状況と察して黙って見送ってくれた。
「少し遅くなるかもしれませんが、いいですか」
「もちろんです。それに、とても一人ではいられません」
東山は仁美に電話を架け、これから佳織さんと一緒に帰ることを告げる。
仁美にも、その雰囲気が伝わったようで、分かりましたと緊張した返事を返してくる。
新地の表通りでタクシーに乗り込む。
電車でも時間は変わらないが、移動中に高杉から電話が入るかもしれないのだ。
「あの、当たってみるって」
「ああ、ご自宅へ電話をかけます。ご本人がいて、何も心配がなければ、予約日時の確認のふりをします。わざと間違えて、それを指摘させてお詫びを言えば済みます。もしも、相手が上の空でよく覚えていない時はちょっと注意が必要で、約束を思い出させることをその糸口にして、電話でカウンセリングに近い会話になることもあります」
「もしも、いなければ」
「電話に出るのはご家族ということになりますから、仕事上の面会の確認ということにして、不在の理由を訪ねたりしながら状況を把握することになります。その上でありのままを告げる場合もあります。そこはカウンセラーの経験と勘による判断です。状況の深刻さと緊急性を一番分かっているのは担当した者ですから。しかし、多くはその懸念が的外れでお叱りを頂戴します。カウンセリングを受けたこと自体がその人だけの秘密の場合も多いので。それでも、最悪の事態を考えると、動かないわけにはいかない」
佳織は最悪の事態という言葉にびくんと反応して黙ってしまう。
十五分ほどして、タクシーが守口にかかった頃、高杉から連絡が入った。
やはり、危険な状態の可能性があるようだ。
原田は、今朝突然思い立ったように、墓参り行くと故郷の広島県呉市へと出かけていた。
高杉は踏み込んで自分がカウンセラーであることを告げ、懸念される状況を奥さんに告げた。奥さんもここのところの原田を見ていて心配していたらしい。時にはひどく優しい言葉をかけてきたり、時には一人でふさぎ込んだりもしていたようだ。
原田の生家にはもう長い間誰も住んでおらず、呉のビジネスホテルに泊まると言っていた。高杉は、これからそれとなく奥さんから電話をしてもらい、状況を確認してもらうところだと言う。
また何かわかれば連絡をくれるように伝えた。
やがて、タクシーは東山のマンションに着き、佳織を伴って家に入る。
「仁美ちゃん、ごめんね」
佳織は浮かない表情のまま、出迎えた仁美に気を使う。
仁美はそれに黙って首を振って応える。どんな言葉をかければいいのかが分からないのも事実だろうが、不思議な聡さで黙っていることが正しいと判断しているようだ。
「東山さん、大丈夫でしょうか」
仁美の出したお茶が冷めた頃、黙っていられなくなった佳織が不安そうに顔を上げる。
「私たちの勘違いであることを祈りましょう」
そして、また沈黙が続く。
十時を過ぎて、再び高杉から連絡が入った。
原田は呉市内の病院に救急車で運ばれたが、ぎりぎりのところで命は助かっていた。
奥さんが、原田に電話をかけても呼び出しはするものの一向に出ない。風呂にでも入っているのかもしれないと、しばらくしてかけ直しても同じであった。
そこで、ホテルのフロントへかけ直した。原田には心臓に持病があり、それが心配だと方便を使い、係に見てきてくれるよう頼み込んだ。ホテルとしても、部屋で倒れられても困る。家族からの依頼を理由に、異例の対応となった。いくらルームフォンを鳴らしても出ないので、合鍵で部屋へ入ると、ベッドで深い眠りについた原田を発見した。その枕元には缶ビールの空き缶と睡眠薬であろう小さな薬瓶やシートが大量に散乱していた。
いくら肩を揺すっても目を覚まさない。これは大変なことになったと、救急車を呼んで病院へ送ることになったと言うのだ。
そして、奥さんに病院を教えてくれ、奥さんは慌ててその病院へ電話をかけた。すると、今は処置中だと知らされ、三十分ほど待たされた。やがて担当の医師から、発見が早かったのが幸いで薬の大半は吐かせて胃を洗浄し、とりあえず命に係わることはないと知らされたのである。奥さんからは、これから府内に住む長男と呉へ向かうと高杉に感謝と詫びの連絡が入った。
「ということで、とりあえず命だけは」
「良かったです。おかげで命が一つ救えました」
「社長のおかげですよ。あの情報がなければ、あのまま月曜を迎えていたわけですから」
「あとは、ご家族に任せるしかありませんね。お疲れ様でした」
「社長こそ。では、失礼します」
とにかく最悪の結果にはならなかった。
ほっと溜息をついて佳織に向かう。
「佳織さん、決してあなたのせいではありません。むしろあなたへの思いから鍵になる言葉が生まれ、私たちも動くことができたのですから」
そんな言葉が少しも佳織の慰めにはならないことは分かってはいる。
「真面目で几帳面な方で、いつも周囲に気を使っている、一般的には素晴らしい性格なんですが、そういう人の方はうつ病という魔の手には弱いものです。佳織さんの仰っていたように長年勤めた会社を心ならずも離れることの喪失感はきっと大きかったはずです」
佳織はしばらくちょっと放心しているように、東山の言葉にぼんやりと頷いていた。
しかし、その顔は次第に歪んでいった。
「こんな時に何にもしてあげられないなんて。いいえ、それよりも私には少しも本心を見せてはくれなかった。私はそのことに気づいてあげられなかったなんて」
ハンカチで目頭を押さえながらそう言う。
「それは仕方のないことなんですよ。佳織さんと原田さんの間には三年間の間に一つの関係性ができていたのです。そうすると見せられない顔も生まれてきます。きっと奥様も何故何も言ってくれなかったのかと嘆いてらっしゃるでしょう」
そんな言葉に、仁美はそっと立ち上がり、自分の部屋に隠れるように入って行った。
佳織を少しでも慰められるのは東山しかいない。また、佳織がすがって行けるのも東山しかいない。そしてその場に自分がいることは邪魔になると思ったのか、分かってはいても見ていられなかったのかもしれない。
ただ、東山に佳織を慰めてやれとのメッセージであることは間違いない。
そんな仁美を眼で追い、ドアの前で少し振り返った時に小さく頷いてやる。
「佳織さん、大丈夫です。経験上、彼はこれで生まれ変わることができます。いいですか、あなたは自分を責めてはいけません」
東山はテーブルの上で佳織の手を握ってやる。
「はい。分かっているんです。私がこんなにめそめそすることを彼は望んではいないこと。でも、やっぱり情けなくて」
「佳織さんがそう思う気持ちは分かります。泣きたいときには、うんと泣けばいいんです。私がそばでいますから」
佳織はふと眼を上げて、仁美の姿がないことに気が付く。
「仁美ちゃんたら。本当に優しい子ですね。私、お姉さん失格です」
「まさか」
「じゃあ、仁美ちゃんの好意に甘えます。東山さん、肩を貸してもらえますか」
「もちろんですよ」
東山が佳織の隣へ移動してその肩を引き寄せると、佳織はそのまま頭をもたげて思い出したように涙をこぼす。
「ごめんなさい。彼への涙を東山さんに慰めてもらうなんて。随分身勝手な女です」
「いいんですよ。こんな私が役に立てて嬉しい限りです。それに、人は誰でもそうです」
「でも、いいな、仁美ちゃん。こんなパパさんとずっと一緒にいられて」
佳織の言葉に、ふっと笑ってしまう。
「いや、ほんの数日前に、同じことを仁美が言っていましたから」
「そうなんですか・・・じゃあ」
「私も随分身勝手な男です」
「良かった。仁美ちゃん、大事にしてもらっていて。それから、やっと私にも順番が回ってきました。それに、もう少しこうして泣いていても許してもらえそうですから」
「やっぱり、三年間は長かったのでしょうね」
佳織は、黙って頷いて、また静かに涙を流した。
そして、十二時が近くなって、ようやく落ち着きを取り戻して、家に何も言っていないので帰りますと立ち上がる。
東山はもう酔いも残ってはいなかったが、やはりタクシーを呼ぶことにする。
「東山さん、ありがとうございます。彼のこと、そして私のことも」
「いいえ。でも本当に良かった」
「こんな時に言うのもおかしいですけど、何となく私も生まれ変われるような気がします。私と彼の関係もこれで終わりです。もう二度と会うこともないと」
「無理をすることはありませんよ」
佳織は頷いて、仁美の部屋をノックする。
すぐにドアは開かれ、目を潤ませた仁美が顔を出す。
「仁美ちゃんごめんね、ちょっとだけパパさんお借りました」
佳織が少しだけ照れ臭そうにそう言うと、仁美は何も言わずに佳織に抱き付いた。
「原田さんのこと、良かったです」
「ごめんね」
「それから、仁美、佳織さんが好きです」
「ありがとう。私もよ。最初からずっと」
すぐにタクシーが来て、佳織は別れ際にもう一度モリへ連れて行ってくださいねと言って乗り込んだ。
二人でそれを見送る。
「佳織さん、大丈夫でしょうか」
「ああ、もちろんショックはあるだろうが、それが乗り越えられるものだという自信も生まれているようだ」
「あの・・・力になってあげて下さいね」
「そうだな」
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