第11話
(十一)
十一月ももうすぐ終わる。仁美と金沢へ行ってから一ヶ月が過ぎていた。
火曜日に東山が帰ると、仁美が二つ報告がありますと言う。
一つは、栄子さんからお料理については合格点をもらえて、任せてもらえるようになったことだった。今週からは、着物の着付けと茶道を教えてもらうことになったらしい。どうやら、実習の成果が現れたようだ。
もう一つは、近くの自動車学校で、入学の申込書をもらってきましたと言う。
「お昼の間だけで、パパさんには迷惑はかけませんから、通ってもいいですか」
「そんなことは気にしなくていい」
「それで、ここの現住所に、アパートを書けばいいのか、ここの住所を書けばいいのか分からなくて」
仁美はそう言って、もらってきた申込用紙を見せる。
きちんとした楷書で名前と生年月日、大学名が書かれてある。そう言えば、これまで仁美の誕生日を聞いたことがなかった。
十二月三日、今週の金曜日だ。
「それはどちらでも構わないだろうが、住民票を出すんだからその住所を書いておけばいい。それはそうと、仁美の誕生日、もうすぐなんだな。何でも欲しいものがあったらプレゼントさせてもらうよ」
「いいえ、私の方がお礼をしなくてはいけません」
「そう言うな。冬用のコート?着付けを習うのなら振袖なんかどうだ。あ、免許を取るんだったら仁美用の車、いや、それはやめておこう、事故でもしてはいけない」
「パパさん、お父さんみたい。いいえ、何にも。ほしいものがあれば、自分で買います」
「そうはいかない」
夢中になっているのは東山の方で、仁美は優しい眼でそんな東山を見ている。
「本当に何でもいいのですか」
「もちろんだ」
「じゃあ、パパさん」
「何だ、また言ってるな。それじゃプレゼントにならない」
「いいえ、ここへ来て一週間たった時に、仁美がパパさんを好きになってからだって言ってくれました。仁美はパパさんが好きになりました。そして、パパさんはそれを許してくれました。だから」
「そう、か。それは憶えているが」
「佳織さんに勝ちたいっていう思いもあるんですけど、それよりも、このままどっちつかずの状態がちょっと苦しくなってきて」
「苦しい?」
「仁美が自分自身をどう扱えばいいのかが分からないんです」
加奈子の言った、可哀想だという意味はこういうことだったのかと思う。
「わかった。私ももう覚悟を決めなくてはいかんな」
「不束者ですけど」
「それは使う場所が少し違うようだが」
「いいんです。そんな気分でいさせて下さい」
そんなことを言いながら、翌日はけろりとして、自動車学校に申し込みに行ってきましたと眼を輝かせている。そして、始まるのは翌週の月曜日からで、うまく行くと来年の一月末には免許がもらえますと喜んでいる。
この二ヶ月で仁美が大切な存在になっているのは間違いない。仁美のどっちつかずの苦しさも理解できる。しかし、本当にそれが正しい選択なのかというと、その自信はない。
佳織と東山の関係も随分変わってきている。言葉では、順番を仁美に譲るとは言っていても、穏やかではいられないのではないかとも考えてしまう。
覚悟を決めたと言いながらまた迷ってしまう。
いざとなると男の方が往生際が悪い。
そして、金曜日を迎えた。
いつも通り仁美に起こされて一番に誕生日おめでとうと言い、仁美は少し照れてありがとうございますと答える。大切な日ではあるが、仕事を休むわけにもいかない。クライアントからの予約が四件入っている。
一人でいるとあれこれ考えてしまうが、クライアントと向かい合う瞬間には、いわゆるカウンセリングのスイッチが入って部分的に別の人格になる。
しかしまた、一歩仕事を離れると、東山も凡庸な一人の人間に戻ってしまう。
仕事を終えた帰りに、いつもなら気にもしないケーキ屋で、ショートケーキを二つ買う。
仁美には、また子ども扱いをすると叱られるかもしれないが、それもまた楽しい。
電車に揺られてケーキが倒れないように、いつもよりしっかり踏ん張ってしまう。日頃は電車の揺れなど気にしたこともなく、こんなに揺れているのだと初めて気が付いた。
「ただいま。はい、バースデイケーキだ」
玄関まで迎えてくれたエプロン姿の仁美にそう言ってケーキの箱を渡す。
「大きいのを買って名前でも入れてもらおうかとも思ったが、二人ではとても食べきれないので、ショートケーキにした」
仁美は少し恥ずかしそうにそれを両手で受け取って、ありがとうございますとにこりとする。
しかし、すぐにその笑顔は崩れてぽろりと涙が頬を伝った。
たかがショートケーキで泣くことはない。
「どうしたんだ」
「ごめんなさい。仁美の誕生日にはいつもお父さんがケーキを買ってきてくれてました。高校生になっても。それを思い出して」
「そうか。かえって悪かったかな」
「いいえ、いいえ。とっても嬉しいです」
ケーキの箱をテーブルに置いて、仁美は東山に抱きついてくる。
「パパさん、ありがとう。やっぱり大好きです」
東山の胸に頬を寄せて、声にならない声でそう言う。
東山は、そんな仁美をそっと引き寄せて、髪を撫でてやる。
「いつかまた、父上にも会えるといいね」
「・・・はい、といいえです」
「好きと嫌い、か」
仁美は小さく頷く。
そして、泣き笑いの顔のまま東山を見上げる。
「ご飯にしますか、お風呂にしますか、それとも仁美?」
「ばか」
東山はもう一度仁美を抱き寄せてキスをする。するとまた仁美の閉じた瞼から涙がこぼれた。
その夜、初めて仁美の部屋を訪ねた。
出入り自由ですと言われてもうすぐ二ヶ月になる。
そして翌朝は、東山は仁美がベッドから抜け出すのも気が付かず眠っていた。
「パパさん、起きて下さい」
仁美に肩を揺すられてようやく目が覚める。
「ああ、おはよう」
眼を開けると、いつもの仁美の笑顔に出会う。薄手のタートルネックのセーターにこげ茶の七分のパンツにいつもの花柄のエプロン姿である。
昨夜はずいぶん遅くまで静かな涙を流していた。その理由がどうであれ、仁美にとっては大きな変化であったはずだ。涙のわけを尋ねても、そう簡単に心の整理がつくはずもなく、或いは整理を付けたいとも思ってはいなかったのかもしれない。
東山は仁美の体の柔らかさと素肌の温かさを感じながら、ただ黙って髪を撫でていた。
そんな姿が甦り、仁美にどんな言葉をかけてやればいいのか少し迷っていると、仁美はくるりと背を向ける。そしてドアを閉めながら小さく振り向いて、これからコーヒーを入れますからと言う。
どことなく動きがぎこちなく見える。
東山が眠っていたので、シーツの乱れまでは直せなかったようだが、それ以外の痕跡は消され、東山の身に着けるものも洗濯されたものが枕元にきちんと畳んで置かれてあった。
いつもと同じようにガウンを羽織ってダイニングへいくと、すっかり朝食の準備ができている。本格的なフレンチトースト、温野菜、生ハムサラダ、野菜スープと手の込んだものができ上がっていることから、仁美は随分早起きをしたようだとわかる。
やがてコーヒーが運ばれてきて、向かい合って座る。
「今日はずいぶんご馳走だな。ホテルの朝食みたいだ」
そう言いながらも、昨日の涙は解決したのだろうかと、じっと見つめてしまう。
「パパさん、ダメです。見ないで下さい」
仁美は赤くなって俯く。
「どうした」
「だって、何だかすごく恥ずかしくて」
「そうか?」
「はい。こうしていても逃げ出したいくらいです。こっちを見ないで食べて下さい」
ちょっとギクシャクとした食事になってしまう。
さすがに東山もこういう場面に出会ったことがない。
昨日までは、むしろ東山の方がいくらか落ち着かず、仁美は普段と変わらずにいるようにも見えた。それが演技だったのかどうかは分からない。ところが、今日はまるで別人なのだ。
そんな仁美が可愛くもあり心配でもあり、どう扱えばいいのか見当がつかない。
料理について当たり障りのないことを言おうとして顔を上げると、驚いたように身を固くしてすぐに俯いてしまう。
東山が食べ終えてコーヒーを飲んでいても、仁美はほとんど進んでいない。
「どうした、食欲がないのか」
「いえ、そういうわけでは」
「まだ、緊張しているのか」
「緊張っていうのとは少し違うのですが」
「まあいい。私はごちそうさまだ。私がいてはゆっくり食事もできそうにないな」
東山が立とうとすると、今度は少し慌てる。
「ごめんなさい、仁美はまたあとでいただきます」
一緒に立とうとして、小さくあっと眉を寄せてまた座ってしまう。そして、そんな仕草になってしまったことが恥ずかしいようで、手で顔を隠す。
やっと仁美の不自然さの理由が理解できた。
東山は仁美の椅子の後ろへ回って、その手を握る。
「無理をせずにじっとしていればいいのに。随分早起きしたんだろう」
「大丈夫です。目が覚めると、じっとしていられなくて」
「休まないといけない。もう少し食べられる?」
仁美は小さく首を振る。
東山が椅子からそのまま抱え上げると、驚いて首にしがみついてくる。
「片付けが」
「後でいい。仁美は少し眠りなさい」
東山の寝室のベッドに横たえ、隣の書斎から椅子を転がしてきて、ベッドの横で座る。
仁美はやはり辛かったのだろう、エプロンをはずして横になっている。
薄手の掛布団を肩口までかけてやり、手を握る。
「パパさん、優しいんですね」
「知らなかった?」
「いいえ、最初からずっとです」
「ゆうべはずいぶん泣いていたが、もう大丈夫なのか」
「はい。ごめんなさい。パパさんも寝不足?」
「いいや、私は十分眠った」
「お母さんのこと思い出したら涙が止まらなくなって。そして、パパさんに拾われてからのこと、その前のことも」
「そうか」
「いいな、佳織さん。こんなパパさんとずっと一緒にいられて」
「しかしコンプレックスは卒業だな」
「ううん。やっぱりかなわないのは分かってます」
仁美はそう言ってくすりと笑う。
「でもいいんです。まだ、仁美はやっと二十二ですからかなわなくて当然です」
「私は今の仁美が大好きだよ」
「あ、仁美、また驚いたことがあります」
「何かな」
「好きになる気持ちです。何だか仁美が別の存在になるような。仁美はパパさんのものになって、好きっていう気持ちのスタートする場所が変わったような。上手く言えません」
「上手く言わなくてもいいよ。私もね、後悔しているわけではないが、その部分で、仁美に悪かったかなと思う」
「悪いって?」
「普通の恋人だったらそんな気持ちをずっと重ねていけるのに、これから仁美はそれを抑え込んだり、忘れていかなくてはいけないだろう」
「ちっとも悪くなんかありません。恋人だって別れてしまうことだってあります。佳織さんも同じ気持ちなんだろうなって思います。でも、いつかパパさんと加奈子さんのようになれたらいいなって」
「辛い思いはさせたくなかった」
「仁美が望んだことです。覚悟?諦め?はできてたつもりですけど、やっぱり買われただけだったら、辛い気持ちしかなかったかもしれません。でも今は違います。とっても幸せです」
「仁美はいい子だね」
「もう。まだ、子、ですか」
眠そうな声になってきている。
「いくらかは。さあ、少し眠りなさい」
「あ、もう一つだけ」
「何だい」
「パパさん、ありがとう。パパさんに大切に扱ってもらって、自分のこと大切にされていいんだって、ちっちゃな自信ができました」
「そうだな。少し安売りしてしまったかもしれない」
「本当に?」
「ああ、仁美は素敵だよ」
「良かった。恥ずかしいけど嬉しい」
そう言って、ふっと眠りに落ちた。
東山がいくら気を配っていても、また、仁美もそれを表には出さなくても、緊張と恐怖はあっただろう。今は休むべき時間なのだ。
こうして東山の手を握って安心しきって眠っている姿は、相変わらず、一般的などの枠組みにも当てはまらない存在ではある。それだけに余計に大切にしてやりたいと思う。
そういう意味ではやはり、それまでの東山に欠けていたものを教えるために偶然の神様が遣わした存在のようだ。
この瞬間は、本当の人生を共に送ろうと思っている佳織よりも、何の枠組みもない仁美の方が大切だと思える。しかし、それがひと時の感傷であることは分かってはいる。実際に、仁美をどこまでも連れて行くわけにはいかない。契約がどうこうではなく、やがては手放さなければならないのだ。そのことが分かっているために余計に今を大切にしたいと思うのかもしれない。
東山でも上手く整理できないのだから、仁美はさらに悩むことになるだろう。契約の範囲で済ませた方が、簡単に割り切ることができたのかもしれないとも思う。
とはいえ、将来、仁美が東山を思い出すときに、買ってもらった人ではなく、いくらかでも好きになった人でいたいのだ。
そんな儚い望みを抱くのは男だけなのかもしれない。これまで多くの女性がそうだったように、驚くほど現実的で、昨日と今日は何の関係もない。どんなに未練を残しながら別れても、別れた翌日にはすでに過去の人になっている。仁美にもそれだけの逞しさがあってほしいとも思いながら、そうなってほしくはない。
随分、自分勝手なものだ。
あらためて仁美の寝顔を見ていると、どうしてもしっかりと自分の人生を歩ませ、幸せになってもらわなければならない。そのために東山にできることは全て力になってやろうと思う。
それがこの偶然に対する答えであり、契約などという取るに足らないものを超えた仁美の献身に応える唯一つの方法なのだ。
仁美は昼過ぎまでぐっすりと眠った。
そして、寝返りを打ちながら目を覚ます。東山が相変わらずそこにいることに少し微笑みながら、もう一度眼を閉じ、つながれたままの手をぎゅっと握る。
「パパさん、ずっと?」
東山はそれに小さく頷いて見せる。
「ごめんなさい。何時ですか?」
少し恥ずかしそうに眼を開く。
「一時だ」
枕元の目覚まし時計を見てそう答える。
「随分眠ってしまいました」
「疲れているんだ、ゆっくり休まないとね」
「仁美、おなかが空きました」
「そうか、少し元気になったようだ」
「起きます」
東山の手にすがるようにこわごわ身を起こそうとして、どうやら安心できたようでベッドに座る。
「大丈夫?」
「はい。ほら」
そう言って、ぴょんと立ち上がる。
仁美がよろけはしないかと東山も立ち上がると、そんな気持ちを察してわざと東山に倒れ掛かってくる。東山はそのまま受け止めて体を支える。
「パパさん、心配性」
仁美が悪戯っぽくそう言う。
東山としては、仁美から望んだこととはいえ、この事実が仁美の心にどう影響するのかやはり心配もする。
しかし、その仁美は、東山の心配をよそに、溌剌とした笑顔を向ける。
まだ自信は持てないけれども、等身大の自分を認められるようになったと言う。そして、これからは、もっと強くなって自分の人生を歩いて行く準備をすると言う。
ここへ来てすぐに東山の言った言葉に、忠実に従おうとしているのだ。そう考えると、モリのママが言ったように、ここからがスタートなのかもしれない。少し時間はかかってしまったが、仁美には必要なステップだったようだ。
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