七重の選択
ゆう
第1話
《一》
京都桂音大のコンサートホールでは、十一月に行われるオーケストラの定期演奏会にむけてリハーサルが始まるところだった。
ステージにはオーケストラが並び、照明も本番と同じ明るさである。
吉野七重は桂音大の三回生、今回はフルートの主席。
他のパートは四回生や大学院生がいるので、三回生が主席を務めることはあまりない。フルートにも大学院の先輩はいるのだが、夏頃から体調を崩してしまったために七重に大役が回ってきた。
去年からセカンドでステージには立っていたので、緊張することはないものの、主席となるとそれだけ責任は重い。
七重は、十二月で二十一歳。
家は宇治市内で、平等院から歩いて十分ほどの商店街の中にあるお茶屋さん。
明治から続いている老舗で、今年で創業百二十二年になる。
中学校の吹奏楽から音楽を始めて、好きが高じてそのまま音大まで進学した。
だからと言って、プロの演奏家になる気は毛頭なく、やがてはそのお茶屋を継ぐつもりでいる。ただ、縁あって始めた音楽も中途半端にはしたくない。
とはいえ、ごく普通の女子大生であり、勉強の虫でも、音楽オタクでもない。ファッションや恋愛にも関心があって、気の合う友人たちと旅行にも行く。そして、合コンにも誘われると、積極的に参加する。
目下の悩みは、彼と呼べる男性がもう二年以上いないことと、二十歳になっても一向に女性らしい体型にならないことだ。
ざわざわとしたところへ常任指揮者の広中教授が現れた。
「それじゃ、早速一楽章からやってみましょう」
教授の声で、弦楽器が一斉に構える。
教授は、四十代後半だろうか、目鼻立ちのはっきりした顔立ちで、ほとんど白くなった髪をおかっぱ風に短くそろえている。
普段はどちらかというとシャイな印象で言葉少ない教授だが、いざ音楽と向き合うと、どこまでも真摯で妥協はない。だからといって決して厳しい言葉を学生に投げかけるわけではなく、その姿を見て誰もが襟を正さずにはいられないという種類の厳しさだった。
練習用の少し長めの指揮棒を上げて、一通り全体を眺める。
曲はショスタコービッチの交響曲第五番。演奏会のメインプログラムである。
緊張感の張りつめる一瞬だ。
鋭いタクトに導かれて、低弦のフォルテ。そしてバイオリンがたたみかけるようにその後を追う。
三ヶ月前から、学生トレーナーの指揮で練習を重ね、演奏会前一ヶ月前からは広中教授による曲作りが始まる。今日がその初日。
やはり広中教授の指揮になると、皆の集中力が違う。それがオーケストラ全体の響きとして伝わってくる。
フルートの最初の音符は、バイオリンのメロディに重ねるフレーズだ。
音程やテンポが僅かでもずれると耳に付く。ビブラートも最小限に抑えて同化してしまわなければならない。ある面、ソロよりも気を使う。
そして最初のソロ。動きのあるフレーズなので、気を使わなくても自然に歌になる。
そして曲は、時には鬱々と、時には激しく、次第に緊張感を増すように進んでいく。
曲は中盤からクライマックスを迎える。ここ一、二年で男子メンバーが増え、戦力アップした金管楽器の腕の見せ所となる。
盛り上がりは最高潮に達し、フォルテのまま圧倒的な緊張感のある弦と木管のユニゾンへと雪崩れ込む。そしてティンパニの連打が息つく間を与えない。
この後がホルンとの掛け合いで、ブレスのコントロールが求められる。
それまでの緊張から徐々に開放され、ゆったりと牧歌的な雰囲気の中に、この楽章全体を包んでいる影を含んだ音の運びである。
短い弦の刻みのあと指揮者のサインを受けて、注意深くラの二分音符からオクターブ上の音へ。上手く入れた。
一小節遅れて入ってくるホルンの音色。
その音色にどきりとする。これまで四回生の先輩が吹いていたものとは全く違っていたのだ。
決して大きくはないのに、ホール全体を柔らかく包み込むように響いてくる。
誰が吹いているのか気にはなっても、振り向いて見るわけにはいかない。
ついつい自分の音がかき消されてしまいそうで思わず多くの息を使ってしまう。そのために、いつもなら一息で吹けるところを予定外のブレスをしなければならなくなった。
間違えているわけではないが不本意なフレーズとなってしまう。広中教授もそれに気がついて、少し首をかしげる。ちょっと失敗だった。
と、落ち込んでいる暇もなく、次の短いソロがある。ここも音域が低いために力むと息が続かない。途中からピッコロにメロディを渡してフルートの一楽章は終わる。最後のピアニッシモでトランペットが音をはずして、緊張感が途切れてしまった。おかげで七重のミスも目立たなくなった。
そしてチェレスタの消え入るような半音階で一楽章が終わる。
「はい、まずまず、練習はできているようだね」
広中教授が指揮棒を降ろし、ニコリとしながらそう言うと、オーケストラ全体がほっとしている。
「じゃあ、最初から細かく見ていこう。出だしのチェロとバス、もっと厳しく入って、途中で弱くならないように」
再び冒頭から細かく要求が出されて練習が進んで行く。
教授が弦に注意をしている間に、七重は少々慌てさせられた音の主を確認しようとホルンのパートを振り向く。
見慣れない男性が一番の席に座っていて、いつもの四回生の山崎先輩が三番の席にいる。サラリーマン風の七三分けにチェックのシャツで、肩幅はありそうだ。ただ、音色の豊かさとは逆に随分痩身に見える。
隣の三回生と小さく言葉を交わして笑い合っていたが、七重の視線に気付いて、笑顔を見せて小さく頷く。七重もそれに応えて小さく頭を下げた。
時折エキストラで近くのオーケストラからプロを招くこともある。それだと本番前に二、三回程度しかリハーサルには現れない。だとすると院生ということになる。それならば、これまで顔を合わせたことがないのが不思議だった。
練習が進んで、再び彼との掛け合いのところに来る。
「そこのフルート、力まなくていいよ、十分音は通っているから。ただ、二分音符はもう少しだけ長めのほうが説得力が出るのでよろしく」
七重ははいと返事をする。
「じゃ、練習番号三十九から」
今度はいつも通りのブレスで余裕を持って吹くことができた。
教授は左手で七重とホルンにOKサインを出して、そのまま視線は次のクラリネットへと向かう。先ほど失敗した最後のトランペットもうまくいって曲が終わる。
「ふむ、まあ、初日にしては上出来じゃないかな。今日はここまで。ご苦労さん」
そう言って指揮棒を置くと、それまでの緊張感が一気に緩和される。
「やあ、小宮君、今日から合流?」
広中教授が声をかけたのは、そのホルンの主席だった。
「はい。またよろしくお願いします」
「学部生の指導も頼むよ」
そう言って、スコアを持って指揮台を降りる。するとメンバーもざわざわと話し始めたり、楽器や楽譜を片付け始める。
「七ちゃん、さすがね」
セカンドフルートの佐織が声をかけてくる。
飯田佐織、同じ教授についている同級生で、良き友人でもある。
「ううん、今日は失敗しちゃった。もう少し肺活量があったらって、ね」
「ロシア人はあの体格だから、こんな楽譜を書いたのよ、きっと」
「でも金管の迫力、いいよね。これまでにはなかったから」
「やっぱりパワーじゃ男性軍にはかなわない。ねえ、ねえ、あのホルンの主席、院生かな。七ちゃん知ってる?」
「ううん。初めて見る人。教授は小宮さんて呼んでたけど」
「いい音してたと思わない?」
「うん、びっくり。おかげで最初のソロ、ミスっちゃったんだから」
「でもさ、ちょっとオジサンくさいのが残念ね」
「もう、佐織ったら」
後に授業のあるものは急いでホールから出て行く。七重と佐織は同じカリキュラムが多く、二人とも今日はこの後予定がなかった。
リハーサルが終わると一時間ほどで照明が落とされるが、それまでは残って練習する者も多い。校舎に練習室はあっても、ホールの残響の中での練習が心地よいのだ。
そこへまたあのホルンの音が流れてくる。四楽章のソロだ。
やはり山崎先輩の音とは柔らかさと響きの豊かさが違う。
「ここは山崎君が吹いた方がいいんじゃないか。君の音色の方が合うような気がするな」
途中で止めてそう言う。
「小宮さん、そんなアマチュアバンドのようなことはできませんよ。一番の楽譜に書いてあるのを三番が吹いていたら、指揮者がびっくりします」
「そうかな?しかし、我々も立派なアマチュアだからいいんじゃないか」
「いけません」
「ただ、一通り練習はしておいてくれよ。本番では何が起こるかわからないし、直前に体調不良や事故で大ケガってこともあるからな。じゃ、みんなで二楽章のファンファーレやってみよう」
パート練習が続いている。七重と佐織は楽器を片付けながらそんな風景を眺めていた。
「ねえ佐織、西野先輩、体調大丈夫なのかな」
「え、七ちゃん聞いてないの?西野先輩、体調不良ってことになってるけど、本当は流産したんだって」
「ええっ、じゃ妊娠してたってこと?」
「当然でしょ。でなきゃ流産なんかできっこないじゃない」
「ショック。とてもそんな風には見えなかったけど」
「それでね、どうも学校辞めちゃうらしいよ。ダンナは教育学部の助手で、三十五歳。結婚するんだって」
「うっそお、だって西野先輩、まだ二十三でしょ」
「ちょっとした歳の差婚よね。まあ、流産は予定外だったと思うけど、結婚の方は喜んであげなくちゃ」
「そうね」
「七ちゃん、この後予定ある?西院あたりでお茶しない?」
「乗った」
二人で席を立つ。
その時、声をかけられた気がして振り返ると、小宮が七重に手招きをしている。佐織にちょっと待っててと声をかけて、頭を下げながら歩み寄ると、笑顔で迎えてくれた。
「ええと、君、名前は?」
「あ、吉野です。よろしくお願いします」
「吉野さんか。よろしくね。なかなかいい音だよ。最初はちょっとフレージングでミスったけど。広中先生の言った通り、力まなくてもよく通る」
「ありがとうございます。あの、小宮さん、でしたっけ。院の方ですか?」
「ああ、八月までアメリカのジュリアードだったが、九月からまたこちらでお世話になっている。一応、ホルンの本田教授の弟子なもので、強引に呼び戻された。よろしく頼む」
「こちらこそ、いろいろ教えてください」
「ああ、そうだな・・・じゃ、早速、一つだけ。もう少し太ったほうがいい」
「は?」
その言葉にすぐ近くまで来ていた佐織が噴き出し、やり取りを聞いていたホルンの男性たちもどっと笑う。
「いや冗談だ。呼び止めてすまなかった」
七重は恥ずかしくて返事ができなかった。失礼しますとだけ言って頭を下げて振り返り、早足に舞台の下手から外へ出る。
「もう、失礼しちゃう」
すたすたとホール横の通路からロビーに出る。
「ちょっと、七ちゃん。何もそんなに怒らなくてもいいじゃない。冗談なんだから」
七重に合わせて小走りになっていた佐織が呼び止めた。
「あ、ごめん」
我に返って立ち止まる。
「相変わらず真っ正直なんだから」
「だって、こっちは真面目に挨拶してるのに」
「いいじゃないの。褒められたんだし」
「でも、初対面で一番気にしていることを言う?」
「ふうん、そうなんだ。スマートって言われるの嫌なの?」
「だって、佐織のように胸ないし。高校時代からコンプレックスなのよ」
「あはは、それでカチンとね。私は七ちゃんが羨ましくて仕方ないのに、贅沢な悩みね」
「そうかな」
キャンパスの噴水を回って国道へ出ると、桂の駅までは十分ほど歩く。
十月に入って、イチョウ並木が少し色づき始めている。
「女とダイエット、永遠の課題なのに」
「だけど、それはちゃんとあるべきところにあるから言えるのよ。佐織の胸なんか、私でもドキッとするんだから」
「ははっ、お互い様か。でも、小宮さんてすごいのね。ジュリアードだって」
「うん、それは認めざるを得ないかな。音はあんなに繊細なのに、人間はデリカシーに欠けるなんて」
「そんなに決め付けないの」
「佐織だってオジサンくさいって言ってたじゃない」
「そっか」
二人で顔を見合わせて笑いあう。
そして今度はいつものようにあれこれと喋りながらゆっくりと歩き始める。
七重の家族は、稔と佐和の両親、そして二人の兄。しかし長男の恵一兄さんは七重がまだ十歳の時に交通事故で亡くなった。次男の博志兄さんは大学卒業とともにアメリカの企業に就職してもう二年半になる。商売のあとを継ぐ気はないと理系の学部へ入り、IT関係の研究がやりたいと日本を後にした。
博志兄さんが大学進学の頃、稔もまだ五十代半ばでまだ後継のことを考える年でもなく、博志兄さんの希望に反対はしなかった。
七重はその頃中学校に上がったばかりだった。そんな兄と父の会話を聞きながら漠然と、それならばやがては自分が継げばいいと決心していたのだ。もっとも、決心をしていたと言っても、家業を継ぐということが現実的に理解できる年齢ではない。
ただ、その幼い決心は深く七重の心を捕らえていた。成長とともに、商売の難しさや父の苦労が幾分理解できるようになっても、不思議とその思いが揺らぐことはなかった。
佐和は西陣の呉服屋の末娘で、おっとりと優しい人である。育ちとともに人もよく、とても商売のできる人ではない。
卒業後は、まずお茶の勉強や商売の勉強と、人生の本番が待ち受けている。決して楽な道ではないことは十分に分かっている。それでも自分が生まれた家なのだからと、心に決めていた。今の音楽は大学までの自由であって、機会があれば趣味として続けていくことくらいはできるだろうと思っている。
とはいえ、そのことを稔や佐和と真剣に話したこともない。音大への進学のときに、ぼんやりと伝えたが、二人とも女の身でそんなことができるとも、また、そうさせたいとも思っていなかったようで笑って聞き流していた。
二日後、広中教授の二度目のリハーサルがあった。
ステージで小宮と顔を合わせるのに、どんな顔をしていいのか迷っていると、七重が席に着くのを待っていたように、その小宮がホルンを脇に抱えたまま七重の隣に座る。
「吉野さん、だったよね。ちょっといいかな」
七重は驚いて顔を上げる。
「一楽章の三十九番だけどさ、全音符に入ると少しだけ抑えてみてはどうかな。四小節のフレーズは残しながら」
楽譜を指差しながらそう言う。
この間のことを気にしている素振りは全くない。いきなり演奏の話になったことで、いらぬ気遣いはしなくてすんだ。そのことにほっとする。
たしかにそうすることで、お互いの音の動きが浮き立ち、七重のブレスも楽になる。
「わかりました。やってみます」
「あまり抑えすぎると、音程が下がって聞こえるし弱々しくなるから、ほんの少しだよ」
「はい」
フルートの音色の特徴もよく分かっているようだ。
「じゃ」
「ありがとうございます」
「あ、それから、先日は失敬した。女性との会話がどうも苦手で、上手い冗談が言えない。気を悪くさせたようで、すまなかった」
立ち上がりながら、片手を上げてほんの少し頭を下げる。
「あ、いえ、私こそ冗談が通じないって叱られました。気になさらないで下さい」
先輩に神妙な顔をされると、七重もこだわるわけにはいかない。
「あらためて、よろしくな」
小宮のほっとした笑顔に、はいと小さく頷いて応える。
現金なもので、そのひと言で、小宮はデリカシーに欠けるなどと思っていた気持ちは消えて、逆に好ましくさえ思ってしまう。
そして次の週は、他の二曲、グリンカとリムスキーコルサコフの練習となる。タイプの違うロシア作曲家の作品である。その二曲は遠慮する佐織にファーストを頼んだ。そして佐織も無難にこなしている。早いパッセージはむしろ彼女の方が得意なのだ。
ただ、グリンカでは練習よりもずっと早いテンポを教授が要求したために、弦がついていけない。そのために急遽弦だけの練習となって、その他は開放されるという日もあった。
授業で言えば急に決まった自習のようなものなので、本来はそれぞれで練習するべきなのかもしれない。しかし、ほとんどの学生はそのまま帰ってしまう。
その日は、佐織がアルバイトの日であり、早めに入ればそれだけ稼げると慌ててバイト先へと向かった。七重は時間を持て余すことになってしまった。
私立の音大であるために、やはり学費は高い。さらに年一回だが演奏旅行の費用もある。下宿していれば家賃、そして月々の生活費もかかる。
その点、七重は恵まれていた。家から通うことができ、食費や光熱費、洋服代や携帯料金も両親任せでいられる。
ただ、両親そろって、女の子は嫁いで幸せになることが第一で、アルバイトはおろか仕事にも就かなくてもいいという、少々時代錯誤的な価値観を持っている。佐和も、短大を卒業して吉野へ嫁ぐまで就職をしたことはない。その分、お茶やお華といった習い事には幼い頃から厳しく通わされた。そして音楽もその延長線上で始めたことなのである。
もちろん七重にはそんなつもりはなく、結婚よりもまず店を継いでいく気でいるのだ。
七重は弦の練習を聴きながらゆっくりと楽器の手入れをしてホールを後にする。
ホールと正門の間に大きな噴水があり、暖かい季節にはその周りや芝生で本を読んだり楽譜に注意点を書き込んだりすることもある。だが十一月になるとさすがに少々寒い。
そしてその噴水の横を通りかかったときに声をかけられた。
「吉野さん、待っていたんだ」
小宮と一緒にファゴットで院生の中山先輩が手招きをしている。中山先輩はどちらかというとずんぐりとした体型で、長髪に髭を蓄えて芸術家らしく見せようとしている。しかし、あまり似合っているとは思えない。
「あ、お疲れ様です」
「随分ゆっくりしていたな」
「少し弦の練習を聞いていたので。何でしょうか?」
「今、中山君と話していたんだが、折り入って君に頼みがあって」
中山先輩が続ける。
「西野がどうやら学校を辞めることになりそうなことは知ってる?」
「はい、先日聞きました」
「年度末の試験にもなっている院生の発表会で、木管五重奏を計画していたんだけど、フルートがいなくなって困っている。そこで君に参加してもらえないかと思ってね」
小宮は横で微笑を浮かべている。
「でも、そんな大切な場面に学部生が出ていいんですか」
「ああ、それは教授に許可をもらっている。最初はホルンがいなくて山崎に頼むことにしていたから。そこへ小宮君が帰って来てちょうどいいと思ってたら、今度は西野だ。代役で済まないが引き受けてくれないかな」
「でも、そんなチャンスでしたら、まだ出番のない二回生に声をかけていただいたら喜びますよ。私より上手い後輩もいますし」
「うん、それも考えたが、小宮君がどうしても君にって、ね」
「は?」
中山先輩が視線を送ると、小宮が少し照れくさそうに頷く。
「そういうこと。ひと目惚れってやつだ。いや、これは音色の話だからひと耳惚れかな。アンサンブルには君の透明な音が合うと思ってね」
「ありがとうございます。そう言っていただけると断れません、よね」
「是非」
「わかりました。足手まといになるかもしれませんが、よろしくお願いします」
「よかった。で、中山君、練習はいつから?」
どうやら小宮も誘われたばかりのようだ。
「まあ、定期演奏会が終わってから、いや、年明けからかな。発表会は三月十日だから時間はゆっくりあるし」
「折角だからいろいろやってみたいね。俺はオケよりもこっちの方が好きだな」
「そうだな。他のメンバーにも相談してみて、また連絡するよ。それじゃ、僕はこれからちょっと約束があるんで」
中山先輩は片手を上げて振り向き、本館の方へ足早に歩いて行く。
「今日はもう帰るの?」
小宮があらためて七重を振り返って尋ねる。
「はい」
「どこまで?」
「宇治なんです」
「予定がないなら、送って行こうか?」
そう言ってポケットから車のキーを取り出して揺らしてみせる。
「そんな、ご迷惑はかけられません」
いきなりの誘いに面食らって、ちょっとつっけんどんな断り方をしてしまう。
「ま、警戒するのが普通か」
「いえ、警戒だなんて。でも、小宮さんはどちらなんですか?」
「八幡」
「方向が違います」
「ちょうど暇を持て余していてね。遠慮は要らない。もしよかったら、だけど」
「でも」
「妙な心配はしなくていい。これでも一応紳士、のつもりだから」
その言い方が可笑しくて笑ってしまう。
「本当にいいんですか?」
「もちろん。実は、まだ遊んでくれる友達もいなくてね」
「じゃ、お言葉に甘えます」
正門を南へ出ると桂の駅に向かうところを、促されて北に向かう。
ジーンズ生地のブリーフケースとホルンを下げているのに、歩くスピードが早く、七重は並んで歩くのに急ぎ足となる。
小宮の車はコンビニの近くの月極め駐車場にあった。漠然と軽自動車をイメージしていたが、小宮らしいといえばらしいセダンタイプの普通車だった。
「アメリカじゃ人気ナンバーワンだったけど、日本じゃオジサンくさいってね。どうぞ」
おどけながらそう言い、七重のために助手席のドアを開けてくれる。
海外ではそれが当然のようで、随分自然な身のこなしだが、少々気障に見えてしまう。
そして、後ろの座席に敷いてある厚手の座布団にホルンを乗せて丁寧にシートベルトまでかける。楽器を大切にするのはわかるが、そこまで気を使っているのが可笑しくて笑ってしまう。
運転席に座って、七重が笑っているのに気付いて今度は小宮が苦笑いをする。
「あれは、向こうでの癖なんだ。舗装が日本ほど良くないし、運転マナーも悪くてね、ああしておかないと楽器が踊り出すから。宇治のどのあたり?」
「駅前です」
「へえ、あのお茶屋さんの並んでいるあたり?」
「はい、家もお茶屋です」
「ふうん、じゃ、お嬢様なんだ」
「まさか。古いだけが取柄の小さなお店です。お嬢さんに見えます?」
「ほとんど」
時間だけを言えば、電車の方が早いのは言うまでもない。特に京都の街中は信号が多いうえに、違法駐車で車線が塞がっていて余計に時間がかかる。
それでも助手席でゆったりとできるのが心地よい。
一時間と少しの間、お互いにあらためての自己紹介となった。
小宮徹は二十五歳、八幡市の旧家の次男坊。父親は大阪にある同族会社の重役で、タイにある子会社の社長として、もう七、八年も両親とも現地へ行っている。なので八幡の家には祖母と七重と同じ年の妹と三人で住んでいるらしい。
家事は小宮がまだ子供だった頃から、お手伝いの春江さんが一手に引き受けてくれている。両親が一緒にいた頃は、仕事を持っている母親が出勤する朝からお昼過ぎまで、買い物と掃除、そして足の悪いおばあ様の話し相手に来てもらっていた。
父親の海外生活に合わせて、当初は一年程度のつもりで母親もついていった。だが、向こうでの暮らしがひどく気に入ってしまった。日本へは年に何度かそれも一、二週間帰ってくるばかりである。そこで勝手を知った春江さんに朝から夜まで世話になっている。おばあ様が彼女をとても気に入っているので、殊更そのことを咎めもしない。
そんな話を聞くと、小宮は七重のことをお嬢さんなどと言っていたが、小宮の方が経済的にはずっと恵まれた環境であることが分かる。
そうでなければ、音大からさらに海外へ留学などとそう簡単に許されるものではない。
「小宮さんは将来はやっぱりプロに?」
「雇ってくれるところがあればね。まあ、大学に残る道もあるし、市響あたりへもぐりこめれば、アンサンブルにも積極的だから、それもいいかな。君は?」
「私は、家業を継ぎます」
「ほう、お茶屋さんを?」
「はい。兄はアメリカから帰ってきそうもなくて、そうなると私しかいませんから」
「惜しいね。俺の見る限りだけど、こっちの世界でもチャンスありそうな気がするが」
「いいえ。この辺りが限界です。それに、もうずっと前から決めていたことですから」
「ずっと前って?」
「中学生の頃なんです」
「おいおい、そんな頃の決心なんて迷信みたいなものじゃないの?」
「でも、それに疑問を持ったことはありません。音楽は趣味で続けられればいいかなって」
「変わってるな。ま、俺がとやかく言うことじゃないけどね」
「友達にもよく言われます。でも、意地になってとか、親から言われて、というわけでもないんです。たまたまそこに生まれてきちゃったから、って、変ですか?」
「いや、変だとは言わないが、俺には真似できそうもない」
二十四号線から宇治市内に入ると、小宮もこのあたりは不案内で、七重の道案内でJRの駅前のロータリーで車を停める。
「ありがとうございました」
「なに、こちらの方こそ気まぐれに付き合ってもらって楽しかった」
「家はすぐ近くなので、お茶を飲みに寄りませんか?本当にお茶しかありませんけど」
「いや、またの機会にするよ。突然お邪魔しては失礼だし」
「そんなことありません。うちはそれが商売なんですから」
「まあ、またね。じゃ、ここで」
「失礼します」
七重は小宮の車を見送って歩き始めた。
これから演奏面で付き合いの増えそうな小宮が、思っていたよりも話しやすい男だったことに安心した。
細い路地から一本通りを抜けると、七重の家である山吉茶舗の暖簾が見える。小宮にも変っていると言われたが、ここがやがては七重が受け継いで行こうとしている店であった。
藍に白字で「茶」と大きく染め抜いた暖簾をくぐると、店を任せている田村さんが、お嬢さんお帰りなさいと声をかけてくれる。田村さんは父よりもいくつか若いが、もう五十を超えている。七重が物心ついた頃からのつき合いであり、家族と変らない存在である。
七重もそれにただいま帰りましたと応える。そういえば、少しニュアンスは違うものの、子供の頃から従業員の人たちからはお嬢さんと呼ばれていた。
「ある意味、お嬢さんなんだ」
従業員といっても、田村さんの他は日々注文を受けて配達や発送を担当している三好さんのほかはお店でお客様担当のパートさんが日替わりで二人である。四条河原町の百貨店に支店があり、そこも田村さんの奥様と娘さんに任せている。
そんな小さな所帯の商売であっても、それで生計を立て、手伝ってもらっている人たちに給料を払っていくのだから責任は重い。
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