第1話

 

 入学式の喧騒が終わり、私立桜ヶ丘高校の校舎は静けさに包まれていた。午後の陽光が、桜並木の隙間から柔らかく差し込み、校庭に長い影を落としている。リリウム、いや、リリィ・フロストとして新たな生活を始めた少女は、一年A組の教室の窓際で、ぼんやりと外を眺めていた。彼女の手には、入学式でもらった分厚いパンフレット。そこには「部活動一覧」や「学校生活の心得」がぎっしりと書かれているが、リリィの頭にはまるで入ってこない。

 

「部活、か…」 

 

 リリィは小さく呟いた。ユナから渡された任務書には、「普通の高校生として生活する」ことが明記されていた。部活動もその一部らしいが、彼女にはそれが何を意味するのか、さっぱりわからない。戦場では、仲間と共に戦略を立て、敵を狙撃する任務があった。だが、この平和な学園で「部活」とは何をするものなのか。彼女の紫の瞳には、戸惑いが揺れていた。

 

「リリィ! やっと見つけた!」 

 

 突然、教室のドアが勢いよく開き、栗色のポニーテールが揺れる。ミオだ。彼女はリリィの机までまっすぐ突進し、両手をドンと置いて身を乗り出した。

 

「ねえ、部活どうする? もう決めた? 私、バスケ部に入ろうかなって思ってるんだけど、リリィも一緒にどう?」 

 

 ミオの勢いに、リリィは思わず身を引いた。彼女の頭の中では、バスケットボールという単語が浮かぶが、それがどんなスポーツなのか、具体的なイメージが湧かない。訓練中に投擲武器の精度を高めるため、動く標的を撃つことはあったが…まさか、それとは違うだろう。

 

「部活…まだ、決めていません。」 

 

 リリィの声は小さく、視線はパンフレットに逃げる。ミオはそんなリリィの様子に、ますます興味津々といった表情で笑った。

 

「そっか、そっか! じゃあさ、部活見学一緒に回ろうよ! テニス部とか、演劇部とか、めっちゃ楽しそうなのいっぱいあるよ! ね、リリィ、どんなの興味ある?」 

 

「興味…」 

 

 リリィは言葉に詰まった。興味という概念自体、彼女にとって馴染みが薄い。戦場では、任務の成功率や敵の弱点を分析することが全てだった。趣味や楽しみというものは、彼女の人生には存在しなかったのだ。

 

「その…私、よくわからないんです。部活って、何を…?」 

 

 リリィの率直な質問に、ミオの目がキラリと光った。

 

「え、めっちゃ純粋! かわいいじゃん、リリィ! 部活ってさ、好きなことやって、仲間と一緒に楽しむやつ! ほら、運動したり、音楽やったり、なんか作ったり! リリィ、なんか好きなことない?」 

 

 好きなこと。リリィの頭に、戦場での記憶がよぎる。スコープ越しに敵を捉え、完璧な射撃で仕留める瞬間。あの集中力と静寂は、彼女にとって唯一の「安心」だった。だが、そんなことを口に出せるはずがない。

 

「…特に、ないです。」 

 

 リリィの小さな声に、ミオは「うそー!」と笑いながら肩を叩いた。

 

「絶対なんかあるって! ねえ、リリィってさ、なんかこう…秘密の特技とかありそう! ほら、忍者っぽい動きとか!」 

 

「に、忍者!?」 

 

 リリィの声が裏返る。入学式の朝にミオが放った冗談が、なぜかこうやって繰り返される。彼女は慌てて首を振った。

 

「違います、そんなの…ただの、普通の…」 

 

「普通、ねえ! それが一番怪しいんだから!」 

 

 ミオの笑い声が教室に響く。その騒がしさに、リリィはますます縮こまった。だが、その瞬間、教室の入り口から別の声が割り込んだ。

 

「ミオさん、ちょっとリリィさんをいじめすぎじゃない?」 

 

 柔らかく、しかしどこか芯のある声。リリィが顔を上げると、そこには金色の髪をゆるく編んだ少女、セレナ・フローレンスが立っていた。彼女は入学式で新入生代表の挨拶をした、あの穏やかな少女だ。セレナは微笑みながら教室に入り、リリィの隣にそっと立った。

 

「リリィさん、部活のこと、迷ってるの?」 

 

 セレナの声は、まるで春の風のように優しく、リリィの緊張を少しだけ解きほぐした。リリィは小さく頷き、パンフレットを握りしめた。

 

「はい…その、私、部活が何か、よくわからなくて…」 

 

 リリィの素直な答えに、セレナは目を細めて微笑んだ。ミオが「え、マジで!?」と驚く中、セレナは穏やかに言葉を続けた。

 

「大丈夫よ。部活は、みんなで何か楽しいことをしたり、好きなことを深めたりする場所なの。リリィさんは、どんなことが好き? 運動とか、芸術とか…何か気になることある?」 

 

 リリィはセレナの質問に、再度言葉に詰まった。好きなこと。戦場での狙撃は、確かに彼女の「得意」なことだった。だが、それを「好き」と呼べるのか、彼女自身にもわからない。彼女は視線を落とし、呟くように答えた。

 

「…特に、ないです。すみません。」 

 

 その言葉に、ミオが「えー、ほんとに!?」と声を上げたが、セレナは静かに手を振ってミオを制した。

 

「ううん、謝らなくていいよ。初めての学校で、急に決めろって言われても難しいよね。」 

 

 セレナの優しい声に、リリィは胸の奥で何か温かいものが動くのを感じた。戦場では、誰も彼女にこんな風に話しかけてはくれなかった。ユナでさえ、任務の指示や訓練の指導がほとんどだった。セレナの笑顔は、リリィにとって未知の光のように感じられた。

 

「ねえ、リリィさん。」セレナが少し身をかがめ、リリィの目線に合わせる。「もしよかったら、私がいる園芸部に見学に来ない? 花や植物を育てたり、世話したりするの。難しいことはないし、のんびりした雰囲気だから、初めてでも楽しめると思う。」 

 

「園芸部…?」 

 

 リリィは首を傾げた。花や植物。戦場では、植物といえば隠れるための茂みや、足場の悪い湿地に生える雑草しか知らなかった。花を育てる? そんなことが、楽しいことなのだろうか。

 

「うん、花を育てるのって、なんだか心が落ち着くの。リリィさんに合いそうだなって、なんとなく思ったの。」セレナはそう言って、柔らかく笑った。「無理に決めなくていいけど、よかったら一緒に見に行ってみない?」 

 

 リリィはセレナの笑顔に、なぜか目を離せなかった。彼女の心臓が、わずかに速く鼓動を打つ。戦場では、どんな危機的状況でも心拍数は一定だった。だが、今、彼女は自分の体の反応に戸惑っていた。

 

「…はい、行って、みます。」 

 

 リリィの小さな声に、セレナの顔がパッと明るくなった。

 

「やった! じゃあ、放課後、校舎裏の温室で待ってるね!」 

 

 セレナの笑顔に、リリィは思わず視線をそらした。頬が、ほのかに熱くなる。ミオが横で「へー、園芸部! リリィ、花とか似合いそう!」と茶化すが、リリィはそれどころではなかった。彼女の頭の中は、セレナの笑顔と「園芸部」という未知の言葉でいっぱいだった。

 

 ――ー

 

 

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