リリウムの花咲く頃に

倉田恵美

プロローグ



朝靄が立ち込める訓練場の端に、リリウムは静かに立っていた。彼女の銀色の髪は、冷たい風に揺れ、紫の瞳は遠くの標的を鋭く捉えている。両手に握られたのは、特注のマークスマンライフル。重厚な黒い銃身は、彼女の華奢な体に不釣り合いなほど大きい。それでも、リリウムの姿勢は揺るぎなく、まるで銃と一体化しているかのようだった。


「リリウム、準備はいいか?」


背後から、低く落ち着いた声が響く。振り返ると、黒い軍服に身を包んだ女性、ユナ・クロフォードが立っていた。

28歳、ハンター計画の責任者の一人であり、リリウムの指導者だ。

厳格な表情の裏に、妹を見守るような温かさが垣間見える。


「はい、司令官。」


リリウムの声は小さく、感情が薄い。

戦場では「ハンター」として無敵の選抜射手だった彼女だが、普段の会話ではどこかぎこちない。

ユナはそんなリリウムに、わずかに微笑んだ。


「標的は500メートル先、模擬魔獣の装甲を想定した素材だ。10秒以内に3発、全弾命中させろ。始め。」


リリウムは無言で頷き、ライフルを構えた。

スコープ越しに標的を捉え、呼吸を整える。

次の瞬間、3発の銃声が訓練場に響き、標的の中心に正確な穴が開いた。8秒。完璧な結果だ。


「さすが、ハンターの最高傑作。」


ユナの声には感嘆が混じる。

「50年の戦争で、魔物を最も多く仕留めた選抜射手だが、リリウム。」


彼女の言葉が途切れ、空気が重くなる。リリウムはライフルを下ろし、ユナの次の言葉を待つ。ユナは一歩近づき、リリウムの肩に手を置いた。


「戦争は終わった。5年前に、君たちの戦いは終わったんだ。ハンターとしての役目は、もう十分果たした。」


リリウムの瞳が揺れる。戦争の終結は、彼女の生きる目的を奪った瞬間だった。

幼少期から訓練と戦場に身を置き、敵を斃することだけが彼女の存在意義だった。

平和な世界で、彼女のような「兵器」に居場所はあるのか。


「司令官…私は、これから何を?」


その声は、迷子のようなか細さだった。ユナはリリウムを見つめ、厳しさの裏に優しさを滲ませた。


「リリウム。君は戦士として完璧だった。だが、君にはまだ学ぶべきことがある。…人間として生きることだ。」


リリウムの眉が動く。人間として? その言葉は、彼女の人生には存在しなかった概念だった。ユナはリリウムの困惑を察し、口元に軽い笑みを浮かべた。


「だから、君に新しい任務を命じる。」


---


翌日、リリウムはユナに連れられ、基地の会議室へ足を踏み入れた。無機質なコンクリートの部屋には、木製の机と書類の山。

ユナは一冊のファイルを広げ、リリウムに差し出した。


「これが君の新しい任務だ。」


リリウムはファイルを開く。そこには「私立桜ヶ丘高校」のパンフレットが挟まれており、桜並木に囲まれたキャンパスや、笑顔の生徒たちの写真が並んでいる。

リリウムの頭に疑問符が浮かぶ。


「高校…ですか?」


「その通り。」ユナは椅子に腰を下ろし、腕を組んだ。「君は3週間後の4月から普通の高校生として私立桜ヶ丘高校に通う。偽名は『リリィ・フロスト』。ハンターとしての過去は一切隠し、普通の少女として生活する。それが任務だ。」


リリウムの目が見開かれた。

高校生? 普通の少女? 戦場でスコープ越しに敵を捉え、瞬時に引き金を引くことなら完璧にできた。

だが、この「普通」という言葉は、彼女にとって未知の領域だった。


「し、しかし…私は、普通の生活など知りません。学校とは、何をする場所かも…」


リリウムの声に動揺が滲む。ユナは静かに言葉を続けた。


「リリウム。君は戦場で無数の命を救った。だが、君自身が『生きる』ことを知らない。友達と笑い、失敗し、時には泣いたり、怒ったり…そんな当たり前のことが、君には欠けている。」


ユナの声には切なさが混じる。彼女はハンター計画の責任者として、リリウムを戦士に育て上げた。その代償として、彼女から普通の人生を奪った自覚があった。


「この任務は、君が自分自身を取り戻すためのものだ。戦士ではなく、リリウムという人間として、どう生きるかを学ぶ。それが私の願いだ。」


リリウムはファイルを握りしめ、ユナの言葉を反芻する。自分を取り戻す。

人間として生きる。そんなことが、自分にできるのか。

彼女の心に、魔物との戦いでは感じたことのない恐怖が芽生えた。


「…失敗したら、どうなりますか?」


リリウムの小さな声に、ユナはふっと笑った。


「失敗してもいい。それも人間らしさだ。だが、リリウム。君ならできると信じている。」


リリウムは小さく頷いた。彼女の胸の奥で、微かな希望が揺れる。それは、戦場では決して感じなかった、温かい感覚だった。


---


桜の花びらが舞う4月、リリウムは私立桜ヶ丘高校の正門前に立っていた。今日は入学式。目の前には、桜並木に囲まれた美しいキャンパスが広がり、新入生たちの笑い声や興奮した会話が響き合う。

リリウムの手には、真新しい制服が入った鞄。紺色のブレザー、赤いリボン、プリーツスカートから伸びるスラリとした足をつつむ黒タイツ

戦闘服とはあまりにも異なるその装いは、彼女をさらに不安にさせた。


「リリィ・フロスト…これが私の新しい名前。」


リリウムは自分に言い聞かせるように呟き、深呼吸をした。

ユナから渡された偽の身分証には、彼女の新しい人生が記されている。

両親は海外赴任中で、親戚の家から通う16歳の少女。

ハンターとしての過去は、完全に抹消されていた。


正門をくぐると、新入生たちの賑わいが目に入った。

友達同士で写真を撮る子、親と一緒に校舎へ向かう子、校庭で緊張した顔でパンフレットを読み込む子。

誰もが生き生きとしている。この「学校」という場所は、リリウムにとってまるで異世界だった。


「私は…ここで、何をすればいいんだ…?」


リリウムの足が止まる。戦場なら、敵の位置を瞬時に把握し、狙撃ポイントを確保できた。だが、この「入学式」には、何のマニュアルもない。彼女の心臓が、初めての緊張で高鳴る。


「ねえ、そこの子! 新入生?」


突然、背後から明るい声が響いた。

振り返ると、栗色の髪をポニーテールにした少女が立っていた。彼女はリリウムをまじまじと見つめ、にっこりと笑った。


「やっぱり! なんか、めっちゃ落ち着いてるオーラあるね! 私はミオ、よろしく! 入学式の会場、知ってる? 一緒に行こうよ!」


ミオと名乗った少女の勢いに、リリウムはたじろいだ。反射的に一歩後ずさり、言葉を探す。


「あ…私は、リリィ・フロスト。1年A組…です。」


「1年A組! やった、同じクラスじゃん! ほら、行くよ、遅れたら目立っちゃうから!」


ミオはリリウムの手をぐいっと掴み、校舎へと引っ張っていく。

リリウムはされるがままに歩きながら、ミオの手の温かさに戸惑った。

こんな風に、誰かに触れられることなど、訓練以外ではなかった。


体育館へ向かう道は、桜の花びらが舞う中、新入生たちで賑わっていた。

誰かが歌い、誰かが笑い、どこかから甘い花の香りが漂ってくる。

リリウムの頭は、情報過多でクラクラした。


「ねえ、リリィってさ、なんかミステリアスだよね! どこから来たの? 趣味は? 好きな食べ物は?」


ミオの質問攻めに、リリウムは目を白黒させる。趣味? 食べ物? そんなことを考える余裕など、これまでの人生にはなかった。


「私は…その、普通です。特別なことは…」


リリウムの曖昧な答えに、ミオはますます興味津々といった表情で身を乗り出した。


「普通ってのが一番怪しいんだから! 絶対なんか秘密あるでしょ! ねえ、狙撃手とかだったりしない?」


「そ、狙撃手!?」


リリウムの声が裏返る。ミオはケラケラと笑い、彼女の肩を叩いた。


「冗談、冗談! でもさ、リリィ、なんか面白いことになりそう! よろしくね!」


ミオの笑顔に、リリウムは言葉を失った。ユナの言葉がよみがえる。

「人間として生きる」それが、こんなにも騒がしく、予測不能なものだとは思わなかった。


---


体育館に到着すると、入学式の準備が進められていた。

整列する新入生たち、壇上で話す教師、響き合う校歌。リリウムは1年A組の列に並び、周囲の視線に耐えた。

彼女の心臓は、戦場とは異なる緊張で高鳴っていた。


「新入生代表の挨拶、1年A組、セレナ・フローレンスさん!」


司会の声に、リリウムは顔を上げた。壇上に上がったのは、金色の髪をゆるく編んだ少女だった。

彼女の声は穏やかで、まるで春の風のように会場を包み込んだ。


「私たち新入生は、今日から桜ヶ丘高校の一員として、新しい一歩を踏み出します。仲間と共に学び、笑い、時には悩みながら、未来を切り開いていきましょう。」


セレナの言葉に、会場から拍手が沸き起こる。リリウムは彼女の姿に目を奪われた。

セレナの瞳は、まるで湖のように澄んでおり、リリウムの心を不思議と落ち着かせた。


式が終わり、教室へ移動する中、リリウムはセレナが近くを通るのを見かけた。

彼女はリリウムに気づき、軽く微笑んだ。


「リリィさん、よね? 私はセレナ、よろしくね。」


その笑顔に、リリウムは小さく頷いた。


「ありがとう…セレナ、さん。」


セレナの声と笑顔が、リリウムの胸に温かい鼓動を響かせた。

それは、戦場では決して感じることのなかった、未知の感情だった。


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