第29話
値札のない世界──「貨幣が存在しない社会」が露見する
それは、ある些細な場面から始まった。
国際視察団のひとり、シンガポールから来た中央銀行の顧問が、視察の休憩中に列島の自治会が設けた簡易茶屋に立ち寄った。
棚には焼き芋、干し柿、木製の笛、手縫いの布袋。穏やかに笑う女性が「どうぞ、おひとつ」と手渡した。
顧問は財布を出そうとし、そして、ふと立ち尽くした。
——支払い手段が、存在しない。
財布も不要。レジもない。
あるのは「共用記帳板」と書かれた木札だけ。名前の横に「笑顔:あり」と書かれているのを見て、通訳が戸惑いながら説明した。
「ここは……“交わしの場”なんです。
価値は、必要と応答だけで測られます。金額ではなく“関わりの重み”で取引するので……対価そのものが不要です」
その後も、奇妙な事態が続いた。
• 電子マネーによる決済が一切通らない。通信ではなく制度側の不受理。
• ビットコインやCBDC(中央銀行デジタル通貨)を提案しても、「“電気で価値を運ぶこと”そのものに意味がない」と笑顔で否定される。
• 地域ごとの“共助記録簿”は存在するが、そこには数値ではなく「約束」「共有」「貸し借り」などの言葉しか記されていない。
その事実が世界に共有されたのは、国際経済週報の特集記事によってだった。
【特報】日本列島、「無貨幣経済圏」へ——戻ってきた文明の“価格なき選択”
記事はこう報じた。
“日本列島は、5年の沈黙の中で貨幣制度を手放した。
貯蓄も融資も課税も存在せず、代わりに「役割」「信用」「共助」が価値単位となる社会構造が築かれている”
“食事は“食べたいときに働く”。医療は“手が空いた人が支える”。
教育は“知っている人が教えたいことを語る”——それが、彼らの「経済」なのだ”
この報に、世界は衝撃を受けた。
ロンドンでは国際通貨会議が異例の緊急招集となり、ニューヨークでは“バック・トゥ・バーター(物々交換回帰)”という皮肉を込めたデモが行われた。
仮想通貨市場では「日本リセット」の噂がSNS上で拡散され、投機筋のポジションが乱高下した。
一方、列島ではこの反応に困惑の声すらなかった。
彼らにとって、“お金がない”とは“不便”ではなく、“煩わしさが一つ消えた”という感覚だったのだ。
—
木更津の海洋本部。再び会議室に集まった幹部たちのなかで、与那嶺艦長は呆然とつぶやいた。
「……まさか、“通貨そのものが消えていた”とは……」
ある女性幹部が静かに頷いた。
「ええ。通貨は“時間を削って得る証”でした。
でもこの5年で、人々は“削らずに差し出す”ことに幸せを見出したんです。
いまは、“どれだけ与えてよいか”を基準に動いています」
「それで、どうやって成立してるんです?」
と尋ねた若い技官に、彼女は微笑んで答えた。
「“与えること”が好きな人を、主役にしただけですよ。
もらって嬉しいより、与えて誇らしい人が多い社会は、通貨のいらない経済を生みます」
—
こうして、列島が選んだ“価格なき文明”は、世界経済という巨大な歯車に新たな揺さぶりをかけ始めていた。
それは“拒否”ではなく、“別の進化”だった。
——やがて、世界のどこかで誰かが問い直す日が来るかもしれない。
「私たちは何を売って、何を買っていたのだろう」と。
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