第26話

歴史のひとひら──ペリーとの邂逅、交差した視線と静かな約束


「……あの夜は、霧が濃かったんです」


 与那嶺艦長は、そう前置きして椅子に深く腰かけた。

 会議室の喧騒も、ざわめく視線も、今はもう気にしていない様子だった。

 語るべきものが明確に、彼の胸中にあった。


「我々は、何度目かの観測航行を終え、艦首を潮目に合わせていたところでした。

 突然、霧の奥から、黒い艦影が浮かんできたんです。——いや、“現れた”という方が近いでしょうね」


 誰かが息を飲む音がした。


「帆も煙もない。推進音も聞こえない。水音すらなかった。

 それなのに、波を避けるように静かに、そして堂々と……我々の前に現れたんです」


「そして——そこに“立っていた”んですね?」


 低い声で、列島側の防衛代表が問う。


「はい。艦橋の中央に。黒い軍帽、濃紺の装束。

 胸に軍章のついたコート。

 そして——あの、目。真正面から私を射抜くような視線」


 与那嶺は、片手で眼前の空を指差した。


「そのとき確かに、自分が“見られている”のではなく、“測られている”と感じたんです。

 提督というより、まるで“時代そのもの”と対話していたような錯覚でした」


「言葉は、通じたのですか?」


 今度は気象庁から出向した幹部が尋ねる。


「……不思議なことに。

 言語解析装置は反応しませんでしたが、彼が何を言いたいか、なぜか“分かった”んです」


 軽く微笑んで、続けた。


「たとえば、“あなた方の国は、もう無いのですか”と聞かれました。

 私は、“列島がこの世界から失われた”とだけ答えました。

 すると、提督はこう言ったんです——」


 “Then perhaps your time and mine have something left to learn from each other.”


(——ならば、貴殿の時と我が時は、互いにまだ何かを学ぶ余地があるのかもしれぬ)


 沈黙が、会議室全体に流れた。


「そのあと彼は、私に自分の懐中時計を見せてきました。

 閉じたまま、ただ手に持ち、こちらにかざしたんです。

 私は、理由も分からず礼を返しました」


「まるで何か、時間に関する“同意”のような……?」


 と誰かが思わず口にすると、与那嶺は頷いた。


「彼は最後に——こう言いました」


 “We will return, if your time permits us.”


「そして、霧に溶けるように消えていきました。波紋ひとつ残さず」


「——彼らは、どこへ行ったと思いますか」


 低く、誰ともなく投げかけられた問いに、与那嶺は静かに答えた。


「きっと、“彼らの時代”に帰れたと、私は信じています」


 そこに、確証などなかった。

 だが、嘘でもなかった。


 誰かが思わず笑った。

 それは小馬鹿にした笑いではない。

 困惑と感嘆が入り混じった、人間が“超えてしまった話”の前でしか出ない種の、心からの微笑だった。


 やがて、年配の女性幹部がポツリと呟いた。


「ペリーもまた、案外、知っていたのかもしれないですね。

 国とは——時間の中にある言葉に過ぎないのだと」


 与那嶺は、小さく頷きながら答えた。


「だからこそ……彼は“何も干渉しなかった”。

 あれは、互いの存在を認め合う、たった一度の“黙約”だったのかもしれません」


 誰も言葉を返せなかった。

 ただその場にいた全員が、歴史という名の川の中で、ほんの一度だけ交差した波紋の静かさを見つめていた。

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