契約と代償

「……これが、契約の証だ」


ゼルヴィアの指先が、僕の額に触れた瞬間だった。


冷たい氷のような魔力が、全身を駆け巡る。

心臓が跳ね、視界が暗転し、次に開いたときには、すべてが変わっていた。


視界が鮮やかだった。

空気の流れが、音が、匂いが、まるで別世界のように鮮明に感じられた。

さっきまで体の奥に巣くっていた重たい無力感が、嘘のように消えている。


「な、なにこれ……? 体が……軽い……」


言葉にすると同時に、僕の足元で魔法陣が淡く輝いた。

見たこともない図形、色彩、記号。どれもが、頭の中に自然と意味を持って流れ込んでくる。


「それは契約者にだけ刻まれる“紋章”だ。今の貴様は、常人とは違う。私の力の一部を宿す者として、この世界に在る」


ゼルヴィアが静かに言った。


「ちょ、ちょっと待って……。こんなの、聞いてない。まさか、こんな風になるなんて……!」


戸惑いが口からこぼれる。心の準備なんて、まるでできていなかった。

僕はただ、捨てられて、怖くて、なにかにすがりたかっただけなのに――


「……契約とは、そういうものだ。得るものがあれば、失うものもある」


ゼルヴィアの言葉は、冷たかった。でもその奥に、ほんのわずかな優しさが混ざっていたような気もした。


「で、でも、俺は……もう、元には戻れないのか……?」


「当然だ。契約は一方通行。お前は私の力に触れた。その瞬間から、お前は“私の契約者”であり、この世界においてもはや別の存在だ」


胸の奥が、ずしんと重くなる。

でも……それでも。もう、引き返せない。戻る場所なんて、もうない。


「……わかった。なら、俺は……この力を、無駄にしない」


拳を握る。

自分の体が、まるで他人のもののように力に満ちていた。

腕に走る魔力の脈動が、確かに自分のものとして脈打っている。


「ふむ……案外、呑み込みが早いではないか」


ゼルヴィアが唇を歪めて微笑んだ。

美しいというより、どこか獣のような笑みだった。


「さっそく試してみるといい。お前を見捨てたあの者たち――その実力の差を、目に見える形で知らしめてやるがよい」


「……そんな、復讐のために使う気はない」


口ではそう言った。けど、心のどこかで――ほんの一部で、そう思っている自分がいた。


見返したい。

見捨てたあいつらに、「間違ってた」と言わせたい。

「役立たず」じゃなかったと、証明したい。


ゼルヴィアはそんな僕の揺れを見透かしたように、ふっと目を細める。


「いいだろう。ならば、お前自身の“目的”を探せ。力は手に入れた。次は、“意志”の問題だ」


その言葉は、妙に胸に残った。


僕の“意志”。

今の僕には、まだはっきりとしたものなんてない。

でも、変わるきっかけは手に入れた。だから、これから――


「……行くよ、ゼルヴィア。俺は、変わる」


背を向ける。

新たな魔力に包まれた身体で、初めて足を踏み出す。

もうあの頃のリクじゃない。

目の前のダンジョンの奥へ、あるいは外の世界へ。


女魔王の封印の間を背に、僕の物語が、本当に始まった。

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