霖雨
猫又テン
追憶
あの日は、雨が降っていた。
二人にとって大切な日だった。
きっと上手く行くって、幸せになれるって、まるで子供みたいに、信じて疑わなかった。
絶対なんてことはない。天気予報だって外れるんだ。信じているものが信じている通りにならないことなんて、当たり前だった。
それがもっと早く分かっていれば、君と“お別れ”が出来たのに。
これは、その傲慢さの罰だ。
上を見上げて、視界に映るのは紺色の生地。
望んだ景色はどこにもない。
「あっ」
思わず声を出した。君が居た。
上品な白い生地の傘を持って、顔は見えない。ただ君の長い髪が雨の滴で湿って、それが酷く艶やかだった。
雨が降っていた。大切な日だった。
全てが過去のことなのに、その過去はガムみたいにしつこくへばり付いてる。
どれだけの時間が経とうとも、雨と共に、流されてはくれないのだ。
◇◇◇◇
頬を伝う水滴の感触で目を覚ました。
枕はぐしょぐしょに濡れていて、僕はそれを黙って隅に追いやる。
夢を見るのは、いつものことだ。
気だるい身体を動かして、僕は窓の外を見る。
雨が降っていた。ここのところずっとそうだ。
いや、もっともっとずっと前。“あの日”から、ずっと雨が降っていて、止むことがない。これもいつものことだった。
リネンのパジャマを脱ぎ捨て、オーダーメイドのスーツに袖を通す。
鏡の中の男は青ざめた顔をしていて、目の下には深い隈を作っている。
眠る時間だけはあるのに、滑稽なことだ。
今日は週に一度の外出の日。雨模様の中出かける、憂鬱な日。
「はぁ……」
僕は最低限寝癖を整えると、重苦しいため息を吐く。ため息と同じく身体も重い。
しかし、僕は紺色の傘を手に持って、玄関の扉を開けた。
僕は玄関から外に出る瞬間が、大嫌いだった。
理由は簡単。
「やぁティムさん。元気かい?」
僕へ気さくに挨拶するのは、隣人。
頭が透明なビニール傘の、ただの化け物だ。
雨が止まなくなった時期と同時に、今まで普通に暮らしていた人間達が、急に傘の化け物になった。
彼らは雨が降る日も、なんともないように振る舞う。まるで雨が降っていないように。……自分達が、普通の人間のように。
ただ一人傘を差している僕が、馬鹿みたいだった。彼らは傘自身なのだから、傘を差さないことは当然なのかもしれないが。
僕は声をかけてきた隣人を無視して、その横を通り過ぎた。毎週同じやり取りをしている。この隣人は何度避けても気を病まなかった。薄気味が悪い。
隣人だけでない、全員だ、止まない雨も、異形の住民達も、全てが気味悪い。
色とりどりの傘の中、唯一まともな人間である僕は、静かに歩く。
決して彼らに視線を合わせない。そもそも、彼らの視線がどこに向いているのか、見当もつかない。だから僕は下を向いた。
それまでして出かけるのは、一週間分の食糧を買うため……そして、医者から薬を貰うためだった。
医者も一度に多く薬を渡せば、毎週僕と顔を突き合わせずに済むのに、僕が飲み過ぎたらいけないと、きっちり一週間保つ分しか渡してくれない。
その医者も、勿論傘の化け物だ。
僕の頭がおかしくなったのか、それとも世界がおかしくなったのか。
どちらにせよ、どうでもいいことだった。何もかもがそうだった。雨を降らす曇天のように、全ては曇って灰色で味気なくて。
そして、身体を押し潰すかのように重たい。
あの日からずっとそうだった。
けれども、僕はあの日のことを覚えていない。
訳も分からぬまま、ひたすら与えられる命を享受する。
息を吸って、吐いて、その繰り返し。植物と変わらない。ただそこに居るだけの日々。
“消えてしまいたい”
薄暗い灰色の雲が、口から漏れ出る。
希死念慮を孕んだそれは、僕のことを絞め殺そうと首に纏わり付いた。
足を動かす。鉛を動かしているようだった。
猫のように背中を丸め、俯き、有害物質を吐き出す僕も、傘の化け物達からしたら化け物なのかもしれなかった。
一歩、一歩と雑踏の中を歩く。
色とりどりの傘、傘、傘……しかしそれは雨を凌ぐ道具ではなく、化け物達の頭だ。
消えてしまいたい、消えてしまいたい、消えてしまいたい。雲がとぐろを巻くように、グルグルとグルグルと。
ふと、僕は寂れたアンティークショップの方に目が向いた。
別に、アンティークショップを漁るのが趣味ではない。僕が見ていたのは、軒先に立つ一人の女だった。
傘立ての傍に立つ女は、穏やかに微笑みながら、確かに僕を見つめていた。
見覚えのある、綺麗な長髪だった。どこで見たのかは分からないけれど、とにもかくにも、僕はその女に見惚れた。
思わず、傘を取り落とす。
パサリと乾いた音を立てて落ちた傘に、僕は目を向けることすらしなかった。時が奪われたようだった。雨の音すら聞こえなかった。
無意識の内に、女にじりじりと近付いていた。
脳からの信号が、全てその女に注がれていると言っても過言ではない。
人の顔だ。傘なんかじゃない。初めて会ったはずの女に、僕は強い執着を抱いたのだ。
「あ、あの……」
「こんにちは、ティムさん。生憎の天気ですね」
女は、何故か僕の名前を知っていた。
まるで昔からの仲のような親しみを込めて。
生憎の天気、と言った割には、女は傘を持っていなかった。傘立ての中も空っぽだった。
「貴女の、お名前を伺ってもいいでしょうか……」
女が、口を開いた。
「■■さん」
僕が名前を呼ぶと、■■さんは笑顔で振り返った。透き通った水溜まりみたいな瞳が、弧を描いている。
軒先で運命のような出会いをした僕達は、恋人になった。
彼女はよく笑う人だった。花が恥じらうようにくすくすと。それは正しく、僕にとって救いだった。
相変わらず雨は降り続けていた。人々は傘の化け物だった。それでも、僕は久しぶりに幸福というものを感じていた。
世界に二人だけ。まともな人間。
それが、運命なんて甘美な言葉のように感じられる。■■さんもそう感じてくれればいい。
■■さんが幸せなら、僕はなんでも出来るのだ。
「ティムさん私、花火が見たいの」
だから僕は、■■さんのそんなお願いに頷いた。
医者から処方された薬は、いつの間にか飲まなくなった。情緒の制御もままならなず、衝動だけで呼吸をしていた。
僕は傲慢なままだった。それに気が付かず、僕は直近の花火大会の日程を調べた。
「■■さん、僕は貴女を幸せにしたい。……いや、してみせる」
いつだったか、そんな約束を他の人ともした。
その人の顔は思い出せない。ただ沈殿した澱のように、心の中に残っているだけ。
「嬉しいわ……ティムさん。きっときっと幸せにしてね」
嬉し涙と共にそう答える■■さんの顔にも、覚えがあった。どこでだったかは思い出せない。
思い出してはいけないような気がした。
■■さんは傘を差さない。だから、外を歩く時はいつも僕の傘の下に入り込む。
二人で肩を並べるのだ。
そんな幸せをしばらく続けた。花火大会の日程が迫っていた。
天気予報を確認する。と言っても、この天気予報は当てにならない。
雨が降り続ける中、天気予報はずっと晴天を予報しているのだから。
珍しく、花火大会の日は雨だった。僕は気に止めない。どうせ、外れるに決まっている。
そうに、決まっているのだ。
◇◇◇◇
夢を見た。
花火大会に行く夢だ。僕は誰かと約束していた。
その花火大会は、“彼女”が行きたいと言っていたものだ。
綺麗な花火が見れるように、僕は予め絶好のポイントを取っておくことにした。
大きな川にかけられた橋の上。背の高い建物に視界が遮られることがない。花火を見るのにぴったりな場所。
僕はしっかりと天気予報を確認して、当日臨む。
テレビの画面に映るのは、太陽のマーク。大丈夫、きっと上手くいく。
そうだ、僕は、彼女にプロポーズをしようとしていたんだ。どうして忘れていたんだろう。
ダイヤモンドが付いた指輪を、プレゼントするつもりだった。
彼女はきっと、首を縦に振ってくれるだろう。僕達が付き合った時と同じように、嬉し涙を流しながら歓喜してくれるだろう。
信じていた、信じていたのだ。
どんよりと、晴天だった空を侵略するように、曇天が訪れる。それは、雨も連れて来た。
花火大会中止の報せが、前日に届いた。でも、僕は橋の上に居た。紺色の傘が雨に打たれる。
信じられなかった。信じる訳にはいかなかった。到底受け入れがたいことだった。
彼女が、僕の傍から居なくなってしまった。
病院からかけられた電話の内容を、僕はほとんど覚えていない。
途切れ途切れの単語。車、事故、そして……
いや、そんなはずがない。そんなはずがないのだ。彼女は今僕の隣にいるはずなのだ。
雨なんて降っていないはず。星が輝く夜空が広がって、その空を綺麗な花火が照らすはず。
そして、僕から指輪を受け取って、彼女は、彼女は……幸せになってくれるはずだ。はずなのだ。はずだったのだ。
ざぁざぁと、雨が傘に打ち付ける。
彼女は、素敵な人だった。いつだって、僕のことを支えてくれた。だから、僕も彼女を支えたかった。
彼女の長い髪を思い出す。
お気に入りだと笑っていた、上品は白い傘も。
大切な日だった。大切な人だった。
側溝に流れる雨が、地面に吸われて消えていく雨が。酷く、羨ましかった。
◇◇◇◇
僕はばっと飛び起きる。顔は涙でぐしょぐしょだった。頭が痛い、全てが苦痛だ。
痛みを吹き飛ばすように、頭をむしゃくしゃに掻きむしる。
薬を飲もうとした。とにかく今は何にでも縋りたかった。
どうして、幸せな生活をようやく送れると思ったのに。■■さんと一緒に、全部忘れられると思ったのに。
今日は花火大会の日だ。すぐに直さないといけない。壊れた僕を、早く直さないと。■■さんが僕から離れて行ってしまう。居なくなってしまう。
机の中を漁る。なかなか薬は見付けられない。
消えてしまいたい。耐えられない。君が、彼女が、居ない?そんなこと、そんな人生、耐えられる訳がない。
むちゃくちゃに木製の机を引っ掻いた。爪が剥がれて血が出た。何も感じない。
僕はやがて、蹲ってしくしくと泣いた。
薬を探すことは諦めた。もう、何の気力も湧かない。
ぽっかりと空いた穴を埋めるのは、他でもない。何の変哲もない、希死念慮なのだ。
誰かが、僕をそっと抱き締めた。
子供をあやすように、背中を優しく叩くのは、■■さんだった。
「つらい?」
彼女はそう聞いた。僕は、こくこくと頷いた。
「もう、耐えられない?」
また、僕は頷く。もう無理だった。受け止めることも、呑み込むことも出来なかった。ゆっくり眠りたいのだと、僕はそう訴えた。
「そっか……じゃあ、一緒にいこう?」
■■さんは僕の手を引いた。僕はそれに大人しく従った。
家を出る前、一瞬だけ視界に入った天気予報。
今日は雨が降る。画面の中の“人”は、そう告げていた。
久しぶりに、気持ちがいい快晴。
なのに、人々は皆傘を差している。
どうしてだろう?何故だろう?疑問はすぐに溶けて消えた。僕には■■さんが居た。それだけで、充分なのだ。
水滴が、徐々に僕の身体に染み込むように。
■■さんが足を止める頃には、僕の身体はびしょびしょになっていた。
ある高い建物の、屋上だった。なんだか、太陽に近付いた気分だった。
■■さんは僕の両手を握る。
「踊りましょう?」
ああ、それはいいことだった、素晴らしいことだ。僕は快諾した。僕も手を握り返すと、ダンスは始まった。
雨の音に乗って、僕と彼女はくるくる回る。
僕は踊りがあまり得意ではなかったから、何度も彼女の爪先を踏んでしまったけど、彼女はその度、気にしなくていいとでも言うように微笑んだ。
回る。世界も、常識も、認識も。
ただ僕は彼女に釘付けだった。長い髪の彼女に、この世でもあの世でも、一番大切な彼女に。
「■■さん」
「どうしたの?」
「僕は、貴女を愛しています」
流した涙は、雨に紛れてしまう。それでも僕は泣いていた。嬉し涙か、悲しい涙か。自分でも、分からない。分かることもない。
彼女も泣いていた。でも僕とは違って、彼女は明らかに笑顔を浮かべて。
「ええ、私も愛しているわ」
それを聞いて、僕はほっとした。
その言葉を、あの日聞ければどれだけよかっただろう。あの橋の上で、彼女に想いを伝えられれば、どれほどよかっただろう。
僕は、屋上の縁から、足を踏み外した。
あっと思う間もなく落ちていく。
僕は彼女の手を離さなかった。地面に叩き付けられる最期の瞬間まで、彼女は笑っていた。
◇◇◇◇
雨が、晴れていく。
雲一つない、綺麗な空。
真っ赤な水溜まりの上には、死体が一つ。
傍らには、ひっくり返った白い傘が転がっている。
己の絶命に、気が付いていないのか。それとも、雨が上がったことが嬉しいのか。死人に口はない。答えを得ることは、もうない。
それでも、死んだ男は笑っていた。幸福そうな、穏やかな顔をして、笑っていたのだった。
霖雨 猫又テン @tenneko
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