糸を結う

李蝶こはく

第1話

他人の気持ちなど誰にもわからない。それ故に不毛にぶつかり合い、すれ違い続ける。あまりに当然で、仕方のない事。しかし私たちは、往々にしてそれを忘れる。忘れて、分かり合えているだなんて幻想を抱いてしまう。


ナズナとは、入学式の日に隣の席になったのがきっかけだった。教室のざわめきの中で、ひとりだけ穏やかな空気をまとった彼女に、私はなぜか目が離せなかった。

ナズナは誰にでも分け隔てなく優しくて、いつも人のことを気にかけている。ただのいい子じゃない。彼女の言葉には、うわべじゃない温もりがある。本当に、誰かのためを思ってる人のそれだ。私なんか、咄嗟に人の顔色を伺ったり、自分を守ることばっかり考えてしまうのに。

ナズナは違う。自分のことより、まず相手の気持ちを考えている。優しくて綺麗で清らかで。そんな彼女が私の親友なのだ。


眩しい日差しを睨めつけながら、そんなことをぼんやりと考えていた朝。昇降口で靴を履き替えていると、ナズナが近づいてきた。


「おはようございます、糸井さん。あら、靴紐がほどけていますよ」


見ると、右の靴紐がゆるんでいて、今にもほどけそうになっていた。


「あ、本当だ……ありがと。気づかなかった」

「朝はちょっと慌ただしいですものね。でも、転んだら危ないですから」


ナズナは僅かに笑みを滲ませてそう言った。なんでもない一言なのに、どこか優しさが滲んでいて、思わず頬がゆるむ。


「ナズナって、よく人のこと見てるよね。……私なんて、自分のことでいっぱいいっぱいなのにさ」

「そんなことないですよ。糸井さんは、素敵な方です。私だって、いつも糸井さんに元気を貰っているんですよ」


そんなふうに言ってくれるのは、世界でナズナだけだと思う。そしてたぶん、それはお世辞でも気休めでもなくてちゃんと、私を見てくれている人の、ホンモノの言葉だ。彼女はニセモノじゃない。多分そんな人間は、世の中にそう沢山はいない。

そんな親友がいる。それだけで少しだけ、自分を誇らしく思える。


*****


朝の空気はまだ冷たくて、廊下に差し込む光が床を淡く照らしています。私は昇降口に向かって、重い足を引きずりました。

また一日が、始まってしまいました。

別に何が嫌というわけではありません。ただ今日という日を無事にやり過ごすだけ。それなのに、朝が来るのがずっと怖いのです。うまく笑えているだろうか、嫌われないように話せているだろうか、そんなことばかりを考えてしまいます。

私は周りの人達から、いい子だと思われているようです。でも本当は少し違うのです。私はいい人のふりをしているだけ。親に、先生に、友達に嫌われたくなくて、いい子でいるのをやめられないだけなのです。優しい、親切、素晴らしい、そんな言葉を言われる度に失望される様子が脳裏によぎり、どうしようもなく恐ろしくなってしまいます。

私はいい子でいる以外の方法がわからないだけなのです。

でも、そんな私を、糸井さんは親友と呼んでくれます。少し天然で、はつらつとしていて、まっすぐで、私とは正反対の人。彼女といると、ほんの少しだけでも、ほんとうの自分でいられるような気がするのです。


靴箱では糸井さんが靴を脱いでいました。声を掛けるか一瞬悩んでしまいます。しかし気がつけば、口からするりと挨拶が飛び出していました。


「おはようございます、糸井さん。あら、靴紐がほどけていますよ」

「あ、本当だ……ありがと。気づかなかった」

「朝はちょっと慌ただしいですものね。でも、転んだら危ないですから」


ほんとうはあまり転ぶ心配なんてしていません。糸井さんは運動神経が良い事を知っていますから。靴紐が解けている程度では、そうそう転ばないでしょう。私はほろ苦い罪悪感を誤魔化すための笑みを浮かべます。


「ナズナって、よく人のこと見てるよね。……私なんて、自分のことでいっぱいいっぱいなのにさ」

「そんなことないですよ。糸井さんは、素敵な方です。私だって、いつも糸井さんに元気を貰っているんですよ」

これはほんとうです。太陽のように眩しい彼女の親友でいられる事が、私に力と元気を与えてくれます。

***


ある日の昼のこと、私は先生に呼び出された。あまりよく覚えていないが、かなり時間がかかるからナズナとはお昼を食べることができなかった。


先生との話が終わり、ご飯を食べようと急いで教室に戻ろうとしたときだった。空中廊下でナズナの話し声が聞こえた。

空中廊下には椅子と机があり、そこで弁当を食べる人もいる。おそらく私がいないからと、他の女子に食事に誘われたのだろう。


別に聞き耳を立てるつもりじゃなかった。廊下が静かだったものだから少し話し声が聞こえただけだ。


「ナズナちゃん、るりと一緒にいて疲れない?」


そんな声がして、私は急いで柱に身を隠した。どうやら私の陰口を叩かれているようだ。何も初めてのことじゃない。ナズナのように容姿端麗で、性格が良い女の子と仲良くしたくない、なんていう人はいない。

そんな彼女といつも一緒にいるのだから、妬み嫉みを受けるのも当然だ。


「るり……、と言うのは糸井さんのことでしょうか?」


「そそ。いや別にね、悪口言いたいって訳じゃないんだけど」

「そーそー。ナズナちゃんとるりって性格全然違うじゃん?だから無理してないかなって。あれだったら私の方から言っとくよ?ナズナちゃんのこと振り回すなって」


「お気遣いありがとうございます。ですが大丈夫です。糸井さんとは良好な関係を築いておりますので」


「いやこっちが心配してんのにそれは無くない?私たちから見たらあんま良好じゃないから言ってんじゃん」


「るり、結構性格キツいし絶対ナズナちゃんと合わないって」


「ま、まぁ確かに多少一緒にいて疲れることがない、と言えば嘘になりますが……。でも、 」


にわかには信じ難かった。ナズナが私のことをそんなふうに思っていただなんて。

いや違う。ナズナがそんなことを思っていないのは知っていた筈だ。私がショックだったのは、彼女が周りの意見に合わせたこと。それも私という、曲がりなりにも親友である人間の悪口に。

ナズナはそんな人じゃない。私の中のナズナが音を立て崩れていった。


「あんた、何言ってるわけ?」


思わずその場に入り込んで、彼女の胸ぐらを鷲掴みにして、壁に押し付けた。


ナズナを取り囲んでいた二人はコソコソと逃げていき、そこには私とナズナだけが残った。

ナズナは目を白黒させて、抵抗もせずに、されるがままにしていた。手に込めた力に、震えている手にハッとして、握っていた彼女の白いシャツを離し、逃げるようにして教室へ戻った。


いつから私は彼女に自分の理想を押し付けるようになってしまったんだろう。そして彼女が理想通りじゃないと知った途端失望し、勝手に怒る。最低だ。





教室に戻るとさっきの二人が謝ってきた。


「ほんっとうにごめん! 二人が仲良いのが羨ましくてつまんないことしちゃった……」

「ほんとはあんなこと思ってないから!」


自然と笑みが浮かんだ。


「あー! あれのこと? 全然気にしてないからそんな気遣わないで〜! たぶん寝たら忘れちゃうし、アハハ…」


「ほんとー?」


「本当だよぉー、この前の国語の小テストの点数知ってる? 三点よ。マジで忘れっぽいんだよねー」


「えぇ三点はヤバくない〜⁇」


「えー、だよね補修かなぁ……ま、なんとかなるっしょ!」


こうやってすぐに幼稚で阿呆の振りをする。そうすると人は心の奥底で私のことを見下し、人との壁は低くなる。そうする以外に、他人と上手くやっていく術を私は知らないのだ。


五、六限の授業は足早に去っていった。授業内容は、頭から面白い程するすると抜け落ちていく。

七時限目は移動教室だった。私はナズナと行動せずに、一人で移動した。ナズナはいつも一緒に移動している私が居なくて、戸惑うだろう。ざまあみろだ。

そんなムシャクシャした気持ちを抱え、実験室に移動した。ナズナが一人で寂しく来るのが見たくて横目で扉の方を眺めた。ナズナは、何人かの女子と楽しそうに話しながら、実験室に入ってきた。腑が煮えくりかえるような、それでいて重く冷たい石がお腹にズドンと入っているような、そんな気分だった。


放課後、帰ろうとしているナズナを引き留めた。ここで謝っておかないと取り返しのつかないことになる。今考えるとそれは自分が楽になりたかっただけなのかもしれない。


「ナズナ、怒ってごめん。あそこまでするべきじゃなかった」


「私の方こそごめんなさい。あの人達の圧がちょっと怖くて……。糸井さんに聞かせるつもりなどなかったのです」


これで終わりの筈だった。互いに謝って笑って終わり。その筈だった。つまらない意地と、独り善がりなプライドが邪魔をした。


「ねぇ、それって自分は悪くないって言いたい訳?あの二人の所為ってこと? それに私に聞かれなきゃあんなこと言っても良いってこと?」


これじゃあ勝手に盗み聞きした私が悪くて、ナズナは何も悪くないみたいじゃないか。私が勝手に怒っただけみたいじゃないか。そんなことがあってたまるものか。ナズナが悪くて、私は被害者なんだ。


*****


ええ、そうですとも、私だってあんなこと言いたくありませんでしたよ。あの二人の所為以外何があると言うのですか。

仕方がないじゃないですか、他人の意見を否定したことなんて無かったのですから。あの時なんて言えば良かったのですか。貴女方の言っていることは間違っていますから訂正してください?

そんなことが言えたら苦労していません。私にとって、他人に嫌われること程恐ろしいものなんて無いのです。

私は糸井さん程、心が強くないのです。悪口を言われれば人一倍傷つきますし、ずっと引きずってしまいます。


怒った糸井さんを前に、どんな顔をすれば良いのかわからず、表情筋が動きません。


「ねぇ、なんで何も言わない訳?今日だって私と喧嘩した後平気な顔して他の人と移動教室してたよね。私が怒ってるの知ってるくせに。あれなに?嫌がらせか何か?」


糸井さんは何も言わない私に呆れたのか、語気を荒げます。

そんな訳ないじゃないですか。なぜそれが嫌がらせになるのですか。私は、糸井さんがいないから一人で行こうとしたのです。そうしたら、他の方々が話しかけて来たのです。あの方々を無視しろと言うのですか?無視して一人で駆け足で来いと?

糸井さんの思考が何もかも理解できません。本当にこの方は糸井さんなのでしょうか。私は糸井さんの親友を豪語しながら、彼女のことなんてちっともわかっていなかったのでしょうか。


*****


ナズナは表情をピクリとも崩さなかった。

私だけやきもきしているのがどうしようもなく癪に触った。


「ナズナはいいよね、性格良くてかわいいからみんなに好かれて……何もしなくても人が寄ってくるもんね」


「何故そんなことを言うのですか。私は全くそんなつもりじゃありません」


「あんたと一緒にいると何て言われるか知ってる?なんでナズナが私と居るんだろうって。なんで可愛くもないしガサツな私なんかが隣にいるのかって。いつも私が下であんたが上。あんただって心の中じゃ私のこと見下して嘲笑ってたんでしょ、阿呆だなって」


ナズナが少し目を見開いて、私のことを凝視した。私はその視線を断ち切るように目を逸らして吐き捨てた。


「私がどんな気持ちで笑ってたか、考えたことはある?」


私の気持ちとは裏腹に、心は暴走してしまう。こんなことが言いたかったんじゃない。こんなのただの八つ当たりだ。あまりに天の邪鬼だ。


ナズナは毅然としていた。


「糸井さんはそんなことを考えていたのですか……。糸井さんを嫌な気持ちにさせたくないですし、これからは、糸井さんとはできるだけ関わらないようにします。ごめんなさい、そんなこと思っていただなんて全然気がつきませんでした」

ナズナはいつも敬語の筈なのに、言葉の端々から途轍もない距離感を感じる。あぁ、これはもう駄目なやつだと思った。もう決して戻れない。私はどこか、ナズナが私を止めてくれて、上手いこと仲直りしてくれることを期待していたのだ。一番仲直りしたかったのは、他でもない私なのに。


「あっそう。私もあんたなんかと一緒に過ごしたくない。もう二度と声なんかかけないでよね。」


そう言い捨てると私は踵を返し、カバンを鷲掴んで立ち去った。

何よりも、彼女がショックを受けているように見えない事が悲しかった。辛かった。悔しかった。傷ついた。私はナズナにとってその程度の存在だったのだ。私はこんなに悲しいのに。

こんな時でも自分のことばかり考えている自分がどうしようもなく憎らしい。こんなだからすぐ嫌われるんだ。

両目に塩水が溜まって前がよく見えない。こんな顔、絶対にあいつなんかに見せるもんか。それが私なりの精一杯張れる意地だった。


*****


糸井さんが身を翻して去ってしまった後で、私は一人、呆然と立ち尽くしていました。


怒りはもう、とうに消え去りました。全ては私の弱さが招いたこと。私が悪いのですから。

どうしようもなく悲しくて上手く息ができません。これを心が痛む、とでも言うのでしょうか。


彼女が苦しく、嫌な思いをしているのならば可能な限り関わらないようにするのが彼女の為にも最善なのでしょう。そうに違いありません。

これまでだってそうしてきました。自分の事が嫌いな人とは距離を取る。至極真っ当な行動ではありませんか。だというのに、この胸の痛みは何なのでしょう。

嗚呼、なんと情けない。彼女の為と言いつつ、結局は糸井さんとぶつかって、傷つくのが怖いのです。私は自分のことしか考えられず、安全牌をとってばかりいるのです。

もしかすると、私の選択は間違っていないのかもしれません。私に糸井さんの隣にいる資格などありません。糸井さんの隣には、もっと相応しい人がいるはずなのではないでしょうか。

心が無数の蟻に噛まれているような感覚がします。

私は悲しいのでしょうか。糸井さんの隣にいられないことが。


***


一晩経って、反省だけが消えて、怒りだけが煮詰めた鍋のようにドロドロと濃くなった。頭の中では自分が吐き捨てた言葉、ナズナに言われた言葉がぐるぐるとまわって、私を苦しめる。

私がこんなに必死なのにナズナは涼しい顔をしていたこと、引き止めてくれなかったこと、私だけ汚いところが露呈してナズナだけ綺麗な済ました顔をしていること。

悪いのは自分だと知っていて、それでも悲しくて、分かっているからこそどうしようもなくもどかしくて悔しくて、それを全部彼女のせいにする。


重い気持ちで学校に登校すると、いつも早く学校に来ているナズナが居なかった。

一時間目。まだナズナは来なかった。

二時間目も、三時間目も。帰りの会になっても彼女は学校に来なかった。彼女の居ない日常が、こんなにも彩度が低いなんて思ってもみなかった。

一日中彼女と顔を合わせずに済んだという、ほんの少しの安堵と共に、自分の所為なのではないかという不安と罪悪感が押し寄せてくる。


次の日も、また次の日もナズナは学校に来なかった。私の所為なのだろうか。


金曜日の放課後、先生が私を呼び止めた。


「糸井さん、ちょっといいかしら」


肝が冷えた。もしかしてナズナは私とトラブルがあったと先生に言いつけたのだろうか。


「結城さんのことなんだけど、あなた達仲良かったわよね。申し訳ないのだけれどプリントを届けてくれないかしら」


あんなに一方的に吐き捨てた手前、どんな顔で会えというのだろう。しかし断る理由がない。喧嘩しただなんて言えばものすごく面倒くさいことになる。


先生の仲介なんて、先生という権力の下に生徒を萎縮させ、表面上落ち着かせる事くらいしかできないのだ。 更に厄介なことに、それは先生によって表面上は解決された訳だから、二度と触れることは許されず、本人達がじっくり話し合って、沢山言い争ってわだかまりを解消する事が出来ない。

沢山不平不満を並べたが、要は先生に関わられ事だけはごめんだということだ。

私は渋々ナズナのプリントを受け取り、心配そうな顔をしながら彼女の容体を聞いた。大したことはなく、ただの風邪だそうだ。

私は荷物をまとめてナズナの家に向かった。

私とナズナの家は近からずも遠からずといったところだ。そこまで近いわけでは無いのだが私の帰り道の途中にあるため、よく帰り道に彼女の家に寄って遊んだものだ。

ナズナの母親は一見優しそうに見えるが、真綿の中に隠されたトゲのような、得体のしれない恐怖を感じることがある。持論だが、常に怒りを顕にしている人よりもこういう人のほうがずっと怖い。こんな怖そうな人からどのようにして彼女が育ったのか甚だ疑問である。

ナズナの家の前につくと、私は息を飲み込んだ。彼女の家は大きくて、いつも威圧感を感じる。ナズナと喧嘩したのもあって、インターホンを押すのが躊躇される。私は、覚悟を決めてインターホンを押した。


「はい、どちら様ですか。」


インターホン越しの声は、軽く機械がかって聞こえて、まるで人間じゃないみたいだ。

「お久しぶりです。ナズナの友達の結城るりです。」

「るりちゃんね、今行くわ。」

すぐに扉が開き、ナズナのお母さんが顔を出した。

「せっかく来てくれたのにごめんなさいね、あの子、ちょうど寝たばかりなの」

覚悟を決めてきた筈なのに、どこか安心してしまっている自分がいる。

「大丈夫です。プリントを渡しに来ただけなので。ナズナの体調はどうですか」

大したことはないと先生から聞いてはいるが、一応聞いておく。社交辞令というものだ。

「大したことはないわ。お医者さん曰くストレス性高体温症らしいわ。心配かけて申し訳ないわ。あの子、学校でなにかトラブルに巻き込まれたりしていなかった?先生とか友達とか……。本人の口から聞くのが一番だとは分かっているのだけれど、あの子に聞いてみても頑として口を開かないものだから」

心当たりしかなかった。急に吐き気が私を襲う。

「その、私にはよくわからない……です。ナズナにお大事にと伝えておいてください。では」


ナズナの部屋のカーテンが微かに揺れた気がした。兎に角彼女の家から遠ざかりたくて、早足で道を歩いた。


*****


二階の窓から見下ろした糸井さんは思ったより小さくて、早足で歩く姿がどこか滑稽に写りました。その背中が角を曲がって見えなくなっても、私はしばらくのあいだ、ぼんやりとその道を見つめていました。

コン、コン。

乾いた音が静けさを破り、耳に飛び込んできました。


「あらナズナ、起きていたの?さっきるりちゃんが来てプリントを届けてくれたのよ。後でお礼を言っておきなさいね」


お母さんはプリントの束を机の上に置きました。


「ねぇナズナ、学校で何かあったの?お母さんね、あなたの力になりたいの。あなたは優しくていい子だから、きっと言えば相手の子に迷惑をかけるとか思っているのね。でも、そんな事は決してないのよ。あなたは何も悪くない」


「……お母さん、本当になんでもないの。ちょっと体調が悪いだけなの」


「そう。なら早く体調を治して学校に行きなさい。これ以上休むと内申点に響くわ。私はナズナに苦労して欲しくないの。さて、何か食べたいものはあるかしら?夜ご飯はナズナの好きなものを作るわよ」


「お母さんの作るご飯は全部大好きだからなんでも嬉しいな」

「まあ、ナズナったら本当にいい子ね。あなたみたいな娘がいて、私は幸せだわ」

お母さんはいつだって優しくて、私のことを心から大切に思ってくれています。私の幸せを、誰よりも願ってくれています。

けれど、それが時折、息が詰まるほど苦しくなるのは、どうしてなのでしょうか。

糸井さんを悲しませ、親の善意を振り払うような自分。私は、なんて出来の悪い子どもなのでしょう。


夜になると、熱はすっかり下がっていました。お母さんが作ってくれたミルク粥でお腹を満たし、いつもより早く布団に入ります。

けれど、目を閉じても頭の中では、糸井さんと顔を合わせたときのことや、どんなふうに謝ればいいのかがぐるぐると回って、眠気を遠ざけてしまいます。何度寝返りを打っても、思考は冴えるばかりです。


やがて、気づけば夜が明けていました。雨戸の隙間から差し込む光の筋が浮かび上がっています。それを見て、「これがチンダル現象……」なんて的外れな感想がふと浮かび、自分の腕をつねってみます。

雨戸を開けて、机の電気を点け、問題集を開きました。

いつも早起きしたときは、登校までの時間を勉強に充てます。朝は頭が冴えていて、物事がすっと頭に入ってくるのです。

けれど今日はなんだか違います。どのページをめくっても、文字が意味を成しません。内容が頭に入ってこないのは、徹夜のせいでしょうか。そんなことを考えていると、窓の外からキジバトの鳴き声が聞こえてきました。

何の成果もない時間を過ごしてしまったという焦燥感が胸に重くのしかかります。


それでも、体は勝手に動き出します。何も考えずとも制服に着替え、鞄を背負い、朝の支度をします。

身についてしまった習慣と、義務感。曇天の空がまるで自分の心を映しているようで、理由もなく苛立ちを覚え、その苛立ちにまた自分で腹を立てました。


教室に着くと、席はまばらに埋まっていました。けれど、糸井さんの姿はどこにもありません。彼女がいても、私はきっと何も言えない。なのに、いないとなると、心は落ち着かず、気持ちだけが空回りします。

手にした単語帳をぼんやり眺めるだけの時間が続きます。

やがて、始業のチャイムが鳴りました。

驚いて顔を上げると、いつの間にか糸井さんは席についていて、近くの友達と笑い合っていました。

胸の奥が、チクリと痛みます。指に刺さった棘が、じわじわと痛みを増していくような感覚です。これは、いったいどういう気持ちなのでしょう。

授業は、いつもと同じように進んでいきます。けれど、私の中では何かが確かに欠け落ちていて、世界だけが相も変わらず容赦なく回り続けています。

その理不尽さに、行き場のない怒りが込み上げてきます。

 次の日も、その次の日も、驚くほど普通に時間が過ぎてゆきました。何も変わらないのに糸井さんだけが私の世界から消えてしまったみたいです。それは多分私の世界の半分くらいを占めていて。もうどんな風に彼女と話していたのかもわからなくなってしまいました。友情というものは、泡沫の夢の如く簡単に消え去ってしまうものなのでしょうか。或いは……嬉しくない考えが浮かんでしまい、それを振り払うように頭をぶんぶんと激しく振ってみます。ネガティブな方向にだけ豊かな想像力が堪らなく憎く感じて、ひとり、深い深い溜息をつきました。


*****


プリントを渡しに行った次の日、ナズナは久しぶりに学校にきた。もう気にするまいと決意した筈なのに、ナズナのことを目で追いかけて、心ではずっと彼女のことを考えてしまう。いっそ嫌いになってしまえれば楽なのかもしれない。

彼女に対して怒り、憤りを感じている筈なのに、ふとした瞬間に出てくる感情はどこかあたたかくて切ないもの。

本当に私は結城ナズナという親友が大切だったのだ。

それを私は自分の手で壊した。こんな時でさえ、自分で話しかけられず、ナズナが話しかけてくれるのを期待している。

 

 いつもの昇降口、同じ場所、同じ光。けれどそこにナズナの姿はない。ただ、冷たい朝の空気だけが、何事もなかったかのように、私の頬を撫でていく。

 靴箱の中の靴紐が解けて、だらしなく垂れ下がっている。あれだけきつく結んだ筈だったのに。解けるのは一瞬だ。


「バカみたい」

 こんな風に人と人の関係は解けていくのだろうか。分かり合おうと、必死で糸を紡ぎ、繋ぎとめていた筈なのに。ほんの少しのすれ違いと、ほんの少しの意地で、その糸はいとも簡単に綻び、千切れてしまう。

 他人の気持ちなんて、結局わからない。わからないこそ、結ぼうとして、解けて、また結ぼうとして……。


 私は、靴紐の解けた靴を見下ろした。

 ナズナ、私は多分あなたの優しさに都合よく甘えていた。いつも受け取ってばかりで、何一つ返せていなかった。それでも、あなたの言葉が、その微笑みが、私の毎日を支えてくれていたことだけは、嘘じゃない。

「…ひっ、ぐ……うぅ……ナズナぁっ…」

 大粒の涙がとめどなく溢れ出して止まらない。拭っても拭っても涙はこぼれ続け、Yシャツがぐしょぐしょに濡れて、乾いた所が見つからない。


 俯いた私の前に、ハンカチが差し出された。花の刺繍がされていて、きちんと折り目のついた真っ白いガーゼのハンカチ。紛れもなくナズナの、私がよく貸して貰ったハンカチだ。

 顔を上げると、ナズナが眉を下げて、なんだか申し訳なさそうに笑っていた。

「ナズナぁっ…」

私は顔がぐちゃぐちゃなのにも構わず、ナズナに抱きついてしまった。言いたいことは、沢山あった筈で、なんて謝ろうかも一杯考えた。なのにナズナを前に、言葉が胸につっかえて一言も出てこない。

 ナズナは全部わかっているとでもいうように頷き、私の背中を優しく叩いてくれた。

 私たちは何も言わず互いの顔を見て微笑んだ。この静かな空間が二人の隙間を埋めて、わだかまりを一掃してくれる、そんな気がした。



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糸を結う 李蝶こはく @kohaku_rityou

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