風に吹かれし神の御心
村は静けさに包まれていた。夜更けにもかかわらず遠く離れた宮殿からは華やかな明かりと音楽が届くほどだ。この夜、村の誰もが眠りにつくことができなかった。幼き頃を知る、いつも共に畑仕事をしていた、泣いている幼子を慰めていたあの優しい子があの暴君の手に墜ちた現実を受け入れられなかった――。
フィロクレスによって痛む傷が癒え、リュカオンがまともに動けるようになったのはそれから一月経った頃だった。
ニクティリスの花が枯れた丘。踏み荒らされた土ではもう、この花が生きることはできないだろう。リュカオンは、夜毎、この丘で思い出す。金色の矢がミリアを貫いたあの光景を、フィロクレスに蹴られた腹の痛みを、そして、宮殿で微かに聞こえたミリアが己の名を紡いだ声を。
誰も、リュカオンを責めなかった。ミリアの両親ですら、寧ろ、リュカオンの身を案じていた。しかし、故に、彼はミリアを守れなかった自身の無力さに怒りを感じた。あの夜、ミリアの一番近くにいたのは自分だったのだからと。
輝くことの無い枯れた花を彼は今夜も見つめる。助けなくては――。日に日にその想いは強く燃え上がっていった。
とある夜更け。なけなしの金で買った安物の短剣を腰に下げリュカオンは家から出ようとした。生まれてからずっと家族で食事を囲んだ思い出の残るテーブルに簡素な言葉で書いた書置きを残して。ミリアを助けても失敗してもこの村にはもう戻れない。
「リュカオン……?」
家を出ようとしたリュカオンの背に声を掛けたのは良く知った声だ。母だ。
「こんな夜に何をしているの?」
リュカオンは振り向けなかった。
「その格好……あなた、まさかミリアを……!」
「ごめん……母さん……」
リュカオンは走り出した。今、振り向けば固めたはずの覚悟が崩れてしまうことを恐れた。遠くから己の名を呼ぶ母の声が聞こえる。リュカオンは振り向くことも止まることも無く村を走り抜け森の中へ入った――。
森の奥深く。獣道。村の勇敢な狩人ですら入らぬ道なき道を進んでいった。遠くに見える宮殿の明かりだけを頼りにリュカオンは足を進めた。歩めども歩めども暗い道は続いてゆく。
(……まだ、遠い)
宮殿まではまだ遠い。母に知られたならば夜明けにでも誰かが連れ戻しに来るだろう。暗い森の中。頼りは遠くの宮殿の明かりだけ。いつになれば着くのだろうか。しかし、リュカオンは足を止めることはできなかった。その足がどれだけ悲鳴を上げようとも。
やがて、視界が、開けた。息も絶え絶えなリュカオンの目前には高い城壁が迫っていた。それは一枚岩から切り出された凹凸の無い城壁だ。
(……登ることは……できない、か)
辺りを見回せども、続く、壁。宮殿に辿り着けば忍び込める入口のひとつくらい見つかると思ったがこの時、リュカオンは己が如何に無鉄砲な行動だったかを悟った。
「……神よ……どうか……本当にいるのなら」
ミリアを助けねばならぬ。そして伝えたいことがあるのだとリュカオンは初めて心から祈った。静まる森の入り口でリュカオンはじっと祈りを捧げた。こんな時に神に祈るなんて。しかし、己の無力さを嘆くことはできなかった。
すると、森の奥から、風が、轟々と走り抜けた。風を見送るリュカオンの背後に人の気配がした。先程までは出れもいなかった。空は既に明るく白んでいる。追いつかれたのかもしれない。リュカオンは振り向いた。そこには男が一人佇んでいた。息を飲んだ。その顔はあの憎きフィロクレスだ。しかし、あの深く黒い髪ではない。彼は金色の髪を靡かせ瞳にリュカオンを映し微笑んでいた。それはあの暴君に似つかわしくない穏やかさを携えて城壁を沿って奥へ進んで行く。リュカオンはその男がどこかへ去ってゆくのを黙ってみていた。
リュカオンがついてきていないと気がついた青年は振り向き怒気を孕ませ大股でリュカオンの前に立ちはだかった。
「ええ、っと、あなたは……?」
「……。」
青年はリュカオンの問いに応えなった。じっとこちらを見下ろす青年の瞳は綺麗だ。その透き通る瞳はミリアを思い出す。吸い込まれるようにその瞳へリュカオンは近づいてゆく。すると、青年は突然リュカオンの両手を取り走り出した。
「ちょ、ちょっと!?」
青年が走り出した先は森の中。元来た道を戻り始めたのだ。手を払おうとも、脚を止めようとも青年を止めることはできなかった。森の中をひたすら進む。リュカオンは信じられないものを見た。視界の端々に流れてゆく光の粒。それは時に、リュカオンにぶつかり、反射して消えてゆく。前を向けば青年の足跡から眩い光の粒が散る。
「これは……!ねえ!どこに行くの!?」
青年はリュカオンの問いに笑うだけで言葉を返さない。やがて、青年の足が止まった。息も絶え絶えなリュカオンの肩を叩き目の前にあるものを指した。石畳みで作られたアーチ形の入り口。天井からは水が滴り落ち、足を踏み入れると反響音が地下に降りる階段の向こうへと響いていた。遠くから水の音がする。
(……暗いけど、この先には?)
光の粒が地下へ吸い込まれる。風に光が運ばれ、水面に浮かんで消えた。
「これは、もしかしてあなたは……!」
リュカオンはこれ以上の言葉を紡ぐことは無かった。風はぴたりと止み、そこにいたはずの青年は光ごと消えてなくなっていた。
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