空白の世界
異端者
『空白の世界』本文
ある冬の午後、ビル街の一角にある現場は青いビニールシートで覆われていた。
その中には、飛び降りて肉塊と化した遺体が横たわっている。
その周辺を警察関係者が行き交っていた。
「今回は、遺書もなしか……」
刑事の一人がぽつりと呟く。
「まあ、あったところで変わらないでしょうね」
彼より少し若い刑事が軽い調子で応じた。
「また『存在している理由がない』だとでも?」
「ええ、そうでしょうね。自殺に見せかけた他殺でなければ……」
存在している理由がない、もしくは必要がない。
近年、自殺した人間の多くがそう言い残して死んでいった。
結婚率、出生率が下がっていく反面で自殺率がどんどん上がっていく。
AIコンピュータやそれを搭載した自律型ロボットにより、人類の多くは労働から解放された。
自由な時間が増え、多くの人間が余裕のある生活を保障された……はずだった。
それなのに、自ら死を選ぶ人間が増え続ける。
これは、この国だけでなく世界的な傾向であった。
「お前は、自分が存在している理由がないと思うか?」
刑事は若い刑事に聞いた。
「さあ、分かりません。ただ、自分の代わりに仕事ができる者はたくさん居ます」
若い刑事はそう言って苦笑いした。
人類規模のアイデンティティの喪失――専門家たちは、この現象をそう呼んだ。
テクノロジーが発展しすぎた結果、人類の存在意義が
しかし、昔のような過酷な労働を強いる社会に戻そうとする人間はいなかった。いや、一部の専門家はそうすべきだと主張したが、それは全人類の再奴隷化であると人権団体は主張し、そちらの方が多くの人間に認められた。
灰色に染まった空から、雪が降り出した。
そういえば、予報は夕方から雪だったな――刑事はそう思いだした。後のことは自律型ロボットに任せて、人間は帰るとしよう。
近年では、警察もよほどのことがない限り、定時で帰るのが普通だった。
現場検証やらなにやら、大半のことがロボットやコンピュータがしてくれる。
もはや人間が頑張る必要など、どこにもないのだ。
積雪は増し、世界を白く染めていく。
彼は自殺現場を離れ、帰宅するためにリニアモーターカーに乗った。
リニア内は暖房が効いていて、暑いぐらいだった。上着を脱いで手に持った。
もはや夕暮れまで働いている人間が珍しい世の中。リニアは
彼はすんなりと席に着いた。
夜の闇に
ヒトは、もう役目を終えたのかもしれない。
なぜなら、自分たちよりも優れた存在を造り出したからだ。
神はヒトを使役することを放棄し、そちらに乗り換えたがっているのではないか?
酷い結論だ。私は無神論者だというのに――彼は皮肉っぽく笑った。
ただ、ヒトがヒトで居続ける意味は何だろう?
答えは出ない。彼は流れていく景色を延々と見続けた。
もはやヒトでしかできないことの方が少なくなってきている。民間企業ではほとんど全ての作業をロボットに任せ、社員たちは在宅でそれらをたまに監視するだけで良い所も多い。
彼らのような警察が現場検証するのも、ほとんど形式的なものだ。この国のお役所は対処が遅いというか、伝統を重んじるところがあるのでそれに付き合っているに過ぎない。
夜の闇に雪が舞っている。その中をリニアは突き進んでいく。
雲に覆われた空は暗い。
もう、人間は必要ないのかもしれない。それを積極的に認めた者が、死んでいく。それだけなのかもしれない。
残っている人間は……惰性か、生存本能か、それとも道楽か――理由を付けて、生にしがみ付いているだけだ。
点差が開き、とっくに負け試合となっている野球中継を思い出す。プロならコールドはないし、とりあえず最後までするしかない――それだけなのかもしれない。
もっとも、これはある意味幸せなことではないだろうか。
かつて多くの人間が想像したように、核戦争で滅んだり、巨大隕石の衝突で滅ぶことを思えば……。
彼は天井を見上げる。LEDの照明が
今、とても穏やかな気分だった。今日も自殺者の遺体を見たが、もうそんなもの見慣れてしまった。きっとまたすぐ見るだろうが、そんなものどうでも良かった。
このまま穏やかに、眠るように滅んでいければ……それはより良い未来とは言えないだろうか?
リニアは速度を落とし、駅に着く気配を見せていた。
ヒトよ……幸せな終焉を。
空白の世界 異端者 @itansya
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