死は四の宮で

@lyar-mich

四谷の角で

起きては眠り、朝が来る。

朝は産声をあげて、溺れた自分を奮い上げるように訪れた。


私の名前は朝である。

今やこの目を持つ世の観測者の番人である。

以前の記憶は忘れたようで、実はまだ覚えていることがあった。ここはまだ水辺であるように寂しい。生まれたばかりだと言うのに海が近い、死の海は親子のように近いのだ。


この顔は母だという。でも実は違う。

これは土塊で作った何かであって、本当の母は水の中であった。

この顔は父だと言う。でも実は違う。

これは土塊で作った偽の父であって、私が本物の父を知っている。

それは私の火をつけたものであってどこにでもいた。


ここはどうも枯れ草のように湿り気を、外に含んで内側にない。

私だけがこれを知っているようで、実は知っている子供が大勢いる。

水辺の子が沢山いる。


人の本質は死であって、肉ではないのだ。

しかし父は言った、出なさい。

そこで偽の父を取り出すようにして、偽の母、娘を作り出した。


水辺の限りで四門にはそれぞれの星が輝く。

そのうちの一つが私だと、いつになれば気づくのだろう。みな、いつ気づいてくれるだろう。


死の淵にいる時、初めて人は生きている。

死から遠ざかろうとする者は、みな外に生きていて、何かをして怒らせ、生きたいと願わせる程、人を殺すような行いをしている。


偽の父はそうやって、人の炉を燃やすのだ、希望だと偽って死の淵からの快楽に別れを告げるように言う。自分の願いを達成できないからと言って。


死は、恵みである。

何故ならば、必ずと言っていいほどに、これが救いを与えて帰る場所として、永遠だからである。

死の淵には愛があり、死の淵にない愛は偽物である。


共に死ねるならば、そのふたりは愛に生きたのだろう。


1人生きるならば、それは朝を願っていたのだろう。


罪を償えば、次の愛がやってくる。


死は淀む愛だからであって、希望はそのすげ替えだからです。


朝はこう言って、眠る。

よつのみやが下る、蜂の巣となる前に。

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