第2話 内定取り消し
凪は2022年の春、T福祉専門学校を卒業した。おりしもコロナウイルスの真っ只中、二年制の学校は行事が削られ、授業はリモートが多かった。体力に不安があった凪も、良い成績で修了することができた。
凪は、入学する前の一年間、休養を取っていた。それまでは、I市の幼稚園で、保育補助として働いていた。凪は子どもが好きで、子どもと接すると心が落ち着いた。園は凪に精神障害があることを承知で雇用した。しかし、凪は他の教諭からのいじめや、上司からのセクハラに合い、休職してしまった。その後、凪は体力的にも、精神的にも回復することなく退職となった。文は、凪の体力が付く様に、一年間は休養して欲しいと言った。そして翌年、凪は将来を考えて、保育士と幼稚園教諭の資格を取得するために、専門学校に入った。
登と文は、体力のない凪が学校を卒業できるか心配だったが、凪はみごとに卒業証書を手にした。凪は、W県に本部のある社会福祉法人が運営する保育園に内定をもらっていた。凪は学校を卒業する前から、保育園でインターンシップで働いていた。文は凪から、身体が付いてこないと聞いていたが、
「休みながらさせて貰っているから、大丈夫」と言っていた。
3月31日、いよいよ明日から保育士一年生として社会に出ると言う日、本部からリモート電話が入った。
「履歴書に虚偽がありました。又、勤務態度が悪いという報告も受けていますので、この電話をもって凪さんの内定を取り消しすることといたします」「何かご質問はありますか」
人は、余りにも大きなショックを受けると、言葉を失ってしまうのだと知った。文も凪も、何一つ返すことも質問もできずに、黙り込んでしまった。文は、突然のことに怒ることも忘れて、凪に、「質問ない?」と聞かれても、頭を横に振るのが精一杯だった。文は、この時のことを今も後悔している。「あの時、どうして喰い下がらなかったんだ!!怒って当然なのに、黙って承知してしまった。親として不甲斐ないじゃないか!」と、自分を責め続けた。
このできごとが、この年、凪に起きたアクシデントの一つ目だった。
登が帰宅する頃には、文も、怒りが込み上げてきていた。
「虚偽とは何だ!!」
凪は、履歴書に精神疾患があることを書かなかったんだと言った。
「でもね、健康診断の時に問診で伝えたから、本部には届いていると思ってた」
「それに、精神疾患があることを公表したくなかった」
登が、「本部が把握していなかったのなら、本部のミスだ」と言った。雇用のことについて、登は自分の仕事で係わっているので詳しい。「内定取り消しは、30日前に予告しなければならない。前日に、しかも夜8時とは違法だ!」
登も弁が立つ。文はそれをすっかり忘れていた。文は、どうしてひと言、「父親が帰宅してから、もう一度電話頂けますか?」と、言えなかったのかと、やっと頭がまわり始めた。
凪は、「秘密にしちゃいけないの?」と言った。文は、これは凪の社会への抗議だと思った。今や従業員40人以上の企業には、障害者雇用促進法によって、2.5%の障害者を雇用する義務がある。「それなのに、障害者を内定取り消しにするとは何事だ!」登は速攻で腹を立てていた。
「凪はプライバシーを守っただけ」と言う凪に、文は、社会が精神障害者への理解が無いことを思った。文は、凪の気持ちが分かった。「精神障害イコール狂った人。何をするか分からない。頭がおかしい人。正しい判断ができない。犯罪を犯しても罪にならない人。と、印象が独り歩きしている。凪が病気を隠したいのも、思い余ってのことだ」文はそう感じた。
「社会福祉法人が障害者を排除するとは言語道断!そんなことが通る世の中なのか!明日、労働基準監督署に行ってくる」と、登が言った。
「凪はSNSで拡散する!」と、豪語した。文にできることは何か?考えたが、身近なLINEの通じる人に伝えることしかできなかった。Facebookも、instagoodも、登録しているものの、使っていなかった。使い方が分からなかった。
労働基準監督署に出向いた登は、親切な担当者に話を聞いて貰い、職業安定所(ハローワーク)に行くよう薦められた。凪が雇用前だからか、管轄が違うと言われた。ハローワークでも、親切な対応だった。相手の社会福祉法人に対して「勧告がなされる」と、言われた。勧告には、強制力が無いが、勧告を無視すると労働基準監督署からの是正勧告、労働基準法違反になる。凪に対して、勧告後の報告はなされないと言う。
凪は、気が収まらないらしく、「裁判起こして、慰謝料を取る」と言い出した。登が「裁判は時間とお金がかかるし、何より、凪の今後の就職に支障があっては大変だから、しない方がいい」と言うと、凪は「結局何もしてくれないのか!」と言った。登も文も、戦う覚悟がつかなかった。世の中には、コロナウイルスのあおりを受けて、新卒者が内定取り消しになったと聞いたことがあった。人生にはそんな逆境に遇うことも確かにあると、感じていた。文は登の行動力を評価していたので、凪が納得しないことに疑問が残った。
2日後アポイントを取ってあった保育園に、3人で出かけた。園長と話すことができた。
「凪はショックを受けていて、園には入れないと言って、駅前で待っています。どうして、凪は内定取り消しになったんですか?」文が口火を切った。園長は40代くらいの男性だった。
「本部からは、凪さんが辞退したと聞いています」と言った。
「違います。31日の夜8時に人事課のYさんからリモート電話が来て、『履歴書に虚偽がありましたので、内定取り消しといたします』と言われたんです」 園長は、知らなかったのか感情を表さなかった。文は続けた。
「凪の勤務態度が悪かったと言われましたが、どんな態度を取ったんですか?」
「凪さんは、子どもたちにとても良い対応をしていました」
「では、何故。凪に精神疾患が有るからですか?」
「それは知らなかったです」
園長は、驚くでもなく淡々としていた。それまで口を出さないようにしていた登が、我慢できなくなって喋り出した。
「労働基準監督署にも、ハローワークにも行って来ました。内定取り消しは、30日前に伝えなければならないでしょ?!凪はショックを受けてます。精神的な暴力です。どのように責任を取ってくれるんですか」
登は続けた。
「社会福祉法人が母体ですよね。そこが、障害者を排除するようなことをして許されるんでしょうか。履歴書に虚偽があったと言ってますが、別な病気でも同じことが言えますか」
小一時間ほど喋り通した登に対して、園長は静かな態度を崩さなかった。預かっている園児に影響が無いように気遣っていた。園児を怖がらせないようにとの配慮だった。園には保護者からの苦情もあるだろう。中にはモンスターペアレントもいるかも知れない。園長は慣れた感じで、終始穏やかだった。
「本部に連絡を入れます。凪さんのご両親が納得されてないので、電話するように、人事課のYに伝えます」
果てしなく続くかに思えた、登の抗議も落ち着いた。凪も登も文も、この保育園…と言うより、この社会福祉法人に就職したいとは、もはや思っていなかった。
本部から電話が来たのは、翌々日だった。登の質問責めに、人事課のY氏は閉口しただろうと、文は思った。登は、彼らを「絶対許さない」と決めたようだった。登はしつこかった。相手をバカにしたような言い方だった。「社会福祉法人がこんな非道なことをしてもいいんです、か⤴」「入所日前日、しかも夜8時に内定取り消しとは、労働基準法違反じゃないんです、か⤴」登は必ず最後に、人を喰ったような「か⤴」をやけに強調して高い声で言った。暫く凪がその口調を真似ていたくらいだ。
登はみんなが言いたいことを全部言った。それ以上だった。登は、凪の離職票と、インターンシップで働いていた給料、契約解除の内容証明書を送るよう要求した。後日、これらは全て届いた。登と文は、この件の落としどころを見つけたと感じていたが、凪は納得していなかった。凪の心と頭には、この出来事が積み重なっていったのだ。
こんなことが起きた直ぐ後に、18年間飼っていた愛犬の『ロミ』が亡くなった。凪の8歳の誕生祝に飼い始めたミニチュアダックスフントだった。『ロミ』は、何度も癲癇の発作を繰り返し、痙攣をおこすので、文は痩せて小さくなった『ロミ』を抱きしめて、「お願いだから、早く楽にしてあげて!!」と心の中で叫んだ。数滴の水を飲んでも、激しく吐いて苦しんだ。何もできないと分かっていても、凪も文も傍を離れなかった。ずっと撫でて声を掛け続けた。凪は、前日、瀕死の『ロミ』を抱いて、近所の公園の桜を見に行った。凪は身近な死に直面して、大きな悲しみに包まれていた。登が後に、凪の彼氏から聞いた話で、「『ロミ』の死は、内定取り消しよりもつらかった」と、言っていた。
文には、そんな風に見えていなかった。何故なら、程なくして、凪は仕事を探して、面接に行ったからだ。保育士として、放課後等デイサービスに勤め始めた。3ヶ月の試用期間を経て、本採用になる。それまでは、パートだと凪は言った。
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