凪(精神障害であること)

@ugetsufumi

第1話 逃げる

 鹿が1頭、林の中を飛ぶようにきれいに走っていた。

 「そんなに走ったら死んでしまう」

文(あや)は、娘の凪が大きな通りを逃げて行くのを「鹿のようだ」と思いながら見ていた。

「あんなに速く走ったら車にぶつかって死んでしまう」文は、一瞬頭の中で想像した。文は身体が動かなかった。夢の中のことのように、ただ傍観していた。実際は荷物をたくさん持っていて、巧く追いかける事ができなかったのだ。

 「見失った!」と言って、夫の登が戻って来た。二人は、たった今頭を下げて辞してきたA警察署の自動ドアを開けて中に入った。

 「すみません。ここを出て直ぐ逃げられて!追いかけたんですけど、見失ってしまった!」

 登が警官に伝えると、彼らは数人を伴って、凪を探しに署を出て行った。

 凪が統合失調症と診断されたのは、中学三年生の時だった。転入した学校で(いじめ)にあったのが原因で、小児精神科に通い始めて、29歳の現在まで15年程経つ。

 凪は、去年の夏、5回家出を繰り返し、捜索願を出しては何度も警察に保護された。5回目に、凪はこの北の大地に放たれたのだ。

 登と文は、娘を迎えに、朝早い飛行機に乗った。

 「S市のA警察署ですが、多分、娘さんかと思われます。自分の名前も家の電話番号も言ってますし、捜索願が出されてましたので、間違いないと思います。迎えに来て下さい」

 4時間かけて着いた二人から、凪は逃げた。何故、凪が5回も家出を繰り返したのか、凪の頭の中で何が回っているのか二人には理解はできないが、凪が家出をするまでの二年間の様子は説明できた。そして、二人が必死に助けを求めても、どこも、誰も、答えに導いてくれなかった。

 凪の主治医は、「他害、自害したら、直ぐ警察を呼んで下さい」と言った。それは結果論であって、そうならないためにはどうしたら良いのか、二人は何度も医師に相談した。

 暴言を吐く凪。物を壊す凪。突飛な服装で外出する凪。「家で虐待されてるから帰りたくない」と言う凪。「これは価値があるから」と言って何でも買ってしまう凪。ジモティーでウサギを貰ってくる凪。メルカリで大箪笥を遺品付きで買ってくる凪。ボランティアで(子ども食堂)の手伝いに行く凪もいる。

 登と文にとって、毎日何かが起こった。二人は警察にも、福祉団体にも、別の病院にも相談した。話を聞いてもらえそうな所には全て話した。「主治医に相談して下さい」が答えだった。二人は主治医に「入院するくらい悪いですか」と聞くと、医師はYesと言った。

 「ですが、本人が入院を希望されていませんので」と断言した。また、「凪の薬を減らさないで下さい。病状が悪いなら薬を増やして下さい。薬をきちんと飲むように指示して下さい」と訴えると、

 「ご本人が減薬を望まれています。薬は毒でもあります」と言った。二人は万事休すだと思った。二人が凪に転院を薦めても承知してくれなかった。セカンド・オピニオンとして別の病院も予約してみたが、凪は、「M医師は凄い優秀な医者だ!独立して開業した。病院経営までしてる。凪のことは、ずっと前から診てるから理解してくれている」と、両親より医師を信頼しているようなことを言った。手も足も出ない状況でも、登と文は突破口を探していた。

 凪は弁が立つ。理詰めで相手を押し込め、反論しようものなら罵倒した。登も文も、これに負けないように両足を踏ん張った。二人は娘の言動を見るにつけ、「これは、病気だからなのか?それとも性格なのか?」と、いつも話し合ったが、答えは出なかった。M医師も、この問いには答えなかった。

 医師の言うように、登と文は試しもした。凪が「乱暴な口を利くし、腹が立つと家の壁やテーブルに穴を空けるんです。どう対処すれば?」と、問うと、

 「信頼して、本人を受け入れて下さい」と言った。「話し合いたいが、怒り出すのでできない。どう接したらいいですか」

 「家族会議を開いて下さい。牙を向けてきたら、離れて、嫌がることはしてはいけません」

 これで、果たして凪の病気は良くなるのか?二人は試してみては、絶望していた。二人は唯一つ、凪の病気を少しでも良くしたかった。どうすればいいか二人は知っていた。「適切な診断と適切な薬の処方だ」

 登も、文も何度か考えたことがある。「もしも、自分が家を出たら.....」「独りで、貧しくても、何もなくてもいい。この生き地獄のような状況から逃げられたら.....」文は、朝、出勤のために駅のホームで立ったまま、甘い夢を見た。「私独りだけなら、家電も冷蔵庫と電子レンジだけでも大丈夫。箪笥も要らない。ベッドはマットだけ。小さなテーブルと椅子は持って行こう」そんな想像をしている時間を、文は楽しんだ。でも、文は知っていた。文は、毎日辛い現状を友達の角田律子に話した。「家を出ようかなと思う」と、言う

と、

 「もう、充分やったよ。家を出てもいいと思うよ」と賛成してくれた。

 その言葉だけでも、文は救われた。角田が、文の気持ちを大優先に言ってくれているのが分かった。角田は、決して文を責めなかった。文の子育てを否定することもなかった。文はそれが一番有り難かった。

 文は、家を出ることを、口から出任せに言っていた訳ではなかったが、家を出ては駄目だと確信もしていた。「私が家を出たら、登が独りで、凪の面倒、家事、仕事をしなければならないじゃないか」登もまた、同じ理由で家を出なかった。自分だけ逃げる程冷淡になれなかったのだ。「それより、もしも、私が家を出たら、凪の心に一生消えない闇を作ってしまう。親に見捨てられた哀しみが、怨みになって、凪を苦しめる」と、文は知っていた。「しあわせになってほしいと育てた子どもに、親が不幸を作ることはできない」と、文は思ったし、「私が怨まれても怖くはない。凪が人生を怨みで生きなければならないのが辛い」とも想像できた。「逃げるわけにはいかない」と、登も文も思っていた。

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