第3話 静寂の前触れ
午後15:30/DCPD セクター5庁舎 車両帰着エリア
パトカーが車庫に滑り込むと、夕方の湿気を含んだ空気がもわっと車内に流れ込んできた。
一日の“現場”を終えた安堵と、背中にじわりと染みついた汗の不快感が入り混じる。
ローズは真っ直ぐ前を見つめたまま、ゆっくりとシートベルトを外した。
ケイリー巡査部長はいつもの無愛想な顔でグローブボックスからログ端末を取り出す。
「ま、今日は無難だったな。お前らにとっては最初の洗礼ってところか」
車を降りた瞬間、日差しの角度が変わったことに気づく。
夕焼けにはまだ早い時間だというのに、空の端が妙に赤黒く滲んでいる。
俺はパトカーの後部をぐるっと回り、装備チェックと報告準備のためにリアゲートを開けた。
通信端末を取り出し、ログ入力の準備をする。
「スミス、記録はお前に任せる。アンダーソンはそのまま所長室に報告持っていってくれ。俺は少し残って整備の奴と話す」
ケイリーが言い、煙草を片手に整備棟の方へと消えていった。
ローズは軽く頷いて、「報告書、分割にして送る?」と尋ねてきた。
「うん。そっちは署長に直接?」
「ええ。でも……今日の現象、どこまで書けるのか少し悩んでる」
「それ、俺も思ってた」
彼女が端末を見せてくる。そこには「事案記録・補足事項」の欄に、いくつかの短いメモがある。
- 14:07 高層方向の“大気分光異常”観測(裸眼およびカメラ映像)
- 14:10 路上にて非炭素系塗料と思われる光学変化性マーキング確認(表面温度+0.9°C)
- 14:37 空中の“反射しない飛翔体”視認(ドップラーデータなし/定点カメラ非記録)
- 感覚レベルでの圧迫感、音の減衰、微かな振動等あり(低周波領域?)
「……これ、君が?」
「NASAの大学院にいた頃に習ったんだけど、観測現象には“定義可能な記録”と“人間の感覚しか残らない記録”があるって。後者を軽視すると、現象は絶対に再現できない」
「つまり、科学も主観を必要とするってことか」
ローズは微笑み、少しだけうなずいた。
「“あれ”――空にいた物体、熱源反応も電磁パルスも出てなかった。でも私は確かに見た。
それに、あの壁の刻印……発光反応が“位相シフト”してたの。撮った写真、微かにフレームごとに変化してる」
俺は目を細める。
「位相シフト? 光の波長?」
「そう。蛍光塗料のような反射じゃない。“自己発光”にしては変則的すぎる。あれ、多分……私たちの時間軸とは、少しズレた周波数で動いてる」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「それって、別の…次元とか、世界とか、そういう話?」
ローズは首を振る。
「そこまで突飛じゃない。量子状態に近いとも言えるし、カメラでは捉えられないが目では見えるってことは、人間の視神経が何らかのノイズを補正してる可能性もある」
「つまり俺たちは、目で何かを“作り出してる”?」
「あるいは、“本来見えないもの”を、見えるようにされている」
重い沈黙が落ちる。
遠くでケイリー巡査部長が整備班の若い隊員に文句を言っている声が、現実感を取り戻させてくれた。
俺は通信端末に手を伸ばし、報告書の補足欄に静かに書き込む。
補足調査事項
・巡回中に複数の観測不能/計測不能な現象を確認。現象の一部は既知の自然現象(スモッグ・太陽フレア・機器誤作動等)では説明不可。
・“知覚的干渉”と仮定した場合、人間の神経系が何らかの外部刺激と同期していた可能性がある。
・物理的証拠が少ないため、第三者解析の必要性あり。
「ローズ、君は何か知ってるんじゃないのか?」
彼女はドアの取っ手に手をかけ、振り向かずに言った。
「まだ“何も知らない”のよ。でも、何かが近づいてる。そういう時、世界はまず理屈を歪ませ始めるの。現象の“顔”だけ変えてね」
それだけ言うと、彼女は庁舎の中へと消えていった。
記録を送信し終えたあとも、しばらくその場を離れられなかった。
エンジン音も、通信も、他の巡回チームの声も、すべて遠くに感じる。
まるで世界そのものが、音を潜めてこちらを“観察している”ような――そんな、奇妙な錯覚。
その時、無線が一つだけ短く鳴った。
「明日14時、リンカーン宇宙博物館前張り込み指令。対象:不審人物の目撃多数、監視カメラ異常頻発中」
俺は画面を見たまま、息をのんだ。
ああ、やはり。
あの場所で、何かが起きる。
それだけは、もう確信に近かった。
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