第26話 くらがり井戸の詠(うた)
四月二十八日 晴れのち曇り
──井戸の底から聞こえるのは、水音か、詠(うた)か。
裏庭の古井戸から、水音がする。
……ように思えた。風もないのに、水面が細かく揺れている。
翡翠は、「音の反響でしょう」と冷静に言った。
真珠は、しめ縄にする為か荒縄を手にして「井戸なんて埋めちまえ」と吐き捨てる。
ただ一人、紅玉だけが──井戸の縁に指をかけ、じっと水面を覗き込んでいた。
「主さん。あれ、歌ってる」
紅玉の声は真剣だった。
声真似が上手な鸚哥の妖――翡翠でさえ、眉をひそめるほどの澄んだ響き。
それが、私の声にそっくりだった。
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声がかすれる。喉に痛みがある。
大したことはない、と言いかけたが、それを聞いた紅玉が、はっきりと口にした。
「声、喰われかけてる」
“声を喰うもの”は、形も名もない。声だけの存在。
この個体は長く飢えていて──どうやら、私の声を気に入ったらしい。
元来定住せず流れの妖らしいが、先述通り飢えて古井戸に棲みついてしまったようだ。
紅玉は祓うと言った。
「主さんの声、真似しないで……不快……」
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井戸の前で、紅玉が一人、祓いの詞を唱えていた。
風もないのに、赤い髪が波打ち、白い裾スカートが揺れる。
井戸の底から、合唱のような詠(うた)が響く。
その中に、確かに私の声があった。
私が昔口にした言葉。独り言。呼びかけ。すべてを、あの声は覚えていた。
「私、二度同じこと言うの大嫌い……主さんの声を真似しないでって言ったよね?」
ひびき絶えし うつし世に
まことの
たが名騙る まがまがし声
水に沈めよ しろき虚ろよ
返れ返れ 音なき底へ
静まれ 静まれ
祓へ 祓へ 祓へとぞ
紅玉の声が重なった瞬間、詠が崩れ、井戸の水面が静かになった。
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井戸は翡翠の手で清められ、真珠がしめ縄を張り空気用の竹筒を井戸に刺し蓋をしてしまった。
「……二度と主の声に触れるなよ。……紅玉は怖いぞ……」
と、真珠は井戸に向かって低く呟いた。
――喉の奥に、ひとすじの透明な糸が戻ってくるような、そんな感覚があった。声は戻ってきた。
「主さん、これからも優しい声で私の名前。呼んでね?」
そう言って、静かに笑った。
その笑みは、本当に綺麗で──
今まででいちばん、穏やかで少しだけ大人びていた。
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