綻びのリトグラフ

アトリエのドアが開く音がしたのは、朝日がまだ灰色の雲に隠れていた時間だった。

朱音は、昨日の破片をそのまま残したままのキャンバスの前で、静かに筆を持っていた。


床には、破かれた絵の断片。

それをまるで花びらのように周囲に広げて、その中心に置かれた真っ白なカンバスに、朱音はひと筆ずつ、淡い水彩のような線を引いていく。

空音の声が、その背に触れた。


「……昨日の絵、また描くの?」

朱音は振り返らず、穏やかに答える。


「うん。君の壊した絵は、僕の中では“完成”なんだよ。でも、まだ描き足りない。君の痛みを、もっと閉じ込めたいんだ」


「……それって、愛って言っていいの?」

空音の声はかすれていた。

昨晩の嵐のような感情の痕跡をまだ引きずる瞳で、彼女は朱音の背中を見つめていた。

朱音はふっと振り向き、首を傾ける。


「愛って……定義するものじゃないと思うんだ。君がどうしようもなく僕を嫌っても、僕がどうしようもなく君を愛していたら、それは“愛”なんじゃないかな」


空音は俯いたまま、小さく笑った。


「……便利な言葉ね、“愛”って」


──


美術部での制作時間。

空音は、自分の描く絵に集中できずにいた。

何枚も描いては捨て、また描いては破いた。

周囲の誰かが気づいても、誰もそれを口にしなかった。

空音は、ずっと“特別な才能”の隣にいる凡人として、美術室に存在していた。

誰もが朱音を見ていた。

賞を総なめにするその才能、手を汚さずに感情を乗せるその筆致。

空音は、誰よりもそれを近くで見てきた。

それなのに、誰よりも遠くにいるように感じていた。


──


その夜。

空音は、ふらりとアトリエに戻った。

部屋には朱音がいた。

部屋の中央にイーゼル、その前に置かれた椅子には、完成しつつある新たな絵があった。

そこに描かれていたのは、空音だった。

けれど──以前と違う。

表情が、空虚だった。

目の奥には光がなく、唇は閉じられたまま。

肌は白く、まるで魂が抜けたかのような存在。


「……これ、わたし?」


「うん」

朱音は答えた。

「最近の君は、こう見えてる。……少しずつ透明になっていくみたいで、すごく綺麗だと思ってる」


「ねえ朱音……」

空音は静かに言った。

「わたしのこと、本当に“好き”なの?」


「うん」

即答だった。

「好き。君が僕を嫌いでも、僕は君を愛してる」


「じゃあ……試してもいい?」

朱音の目が細められる。


「何を?」

空音は、机の引き出しから、銀色のナイフを取り出した。

朱音がくれた絵を切り裂いた時に使ったもの。

空音の手が震えていた。

でも、その瞳は確かだった。


「……もし、わたしが本当に嫌いでも、あなたが私を愛してるなら。じゃあ、これで──わたしの指、切り落として」

朱音は何も言わなかった。

ただ、ゆっくりと歩み寄り、ナイフを受け取った。


空音は目を閉じた。


「……これで、確かめられる。あなたの愛がどこまでなのか。

私のこと、本気で好きなら──」


朱音はその手を取った。

その瞬間、空音の手首が朱音の掌に包まれた。

ナイフの刃が、指の関節にそっと触れる。

そして。

朱音は、空音の指に刃をあてたまま、しばらく動かなかった。

アトリエの空気は凍りつくように静かで、雨の雫の音すら聞こえない。

聞こえるのは、ふたりの呼吸だけ。

一方は熱を帯びたまま、一方は冷たく震えていた。


「……本気なんだね」

朱音の声は、囁くように低くて、どこか愛おしさすら含んでいた。


「本気で確かめたいの」

空音が答える。

「わたしなんかを、愛してるって言うなら、見せてよ。わたしの狂気と、同じ深さまで沈んでよ。じゃなきゃ、信じられない」

朱音は、ゆっくりナイフを持つ手に力を込め──そして。


すっと、刃先を自分の指にあてた。


空音が目を見開いた瞬間には、もう遅かった。

皮膚が裂け、赤いものが溢れる。

どろり、と指先を伝い、床に一滴落ちた音が、世界の重心を狂わせた。


「……な、にして……」

空音が息を呑む。


朱音は、笑っていた。静かに、狂気と慈愛を滲ませた笑みだった。


「僕が切るくらいなら、君を傷つけるくらいなら、自分の指を落としたほうがいいと思った。

 それでも、君を信じてほしかった。僕の“好き”は、形にならなくても、本物だって」


「馬鹿じゃないの……」

空音の瞳が潤み始める。

怒りでもなく、悲しみでもなく──理解できない何かに、感情が追いつけなかった。


「どうして……どうしてそんなこと、できるの……」


「だって、君は僕にとって、絵なんだ。壊れても、引き裂かれても、痛くても、手離せない。君がそこにいる限り、僕は“描き続けたい”って思ってしまう」


朱音は、自分の傷口を押さえながら、それでも立ち上がって近づく。

指先が血に濡れていても、その手は美しかった。


「君の苦しみも、憎しみも、僕に向けてくれていい。でも、それを“君自身”だとは思わないで。本当の君は、僕だけが知ってる。誰よりも、美しい人間なんだから」


空音は涙を流しながら、崩れ落ちた。

朱音の胸に、縋るようにしがみついた。

朱音は、その小さな体を抱きしめた。

傷の痛みも、服に広がる血も、なにも気にしなかった。


「……あなた、わたしを壊してくれるんだね」

空音の声は、嗚咽に濁っていた。


「うん、でもちゃんと“描き直す”から。壊れても、何度でも僕が描くよ」


アトリエの空気が、ふたりの熱でゆっくりと歪むようだった。

愛の言葉を口にすればするほど、心が削れていく。

それでも、それをやめられなかった。


──なぜなら、それがふたりにとっての「救い」だったから。



数日後、空音は美術室に姿を見せなくなった。

その代わり、朱音のアトリエに毎日通うようになった。

彼女は、朱音の前でただ“座っているだけ”の存在になった。

筆も、パレットも触らない。

朱音だけが描き、朱音だけが創り、空音はそれを受け入れ続けた。

まるで、自分という人間をキャンバスに明け渡してしまったかのように。


「もう、自分で絵を描く意味がわからないの」

空音がぽつりと漏らした言葉に、朱音は微笑む。


「それでいい。君の“存在”が、僕にとっての最高の芸術なんだから」


彼女の手には、絵筆ではなく、朱音の手が握られていた。

傷跡は残ったまま、朱音の指は包帯に包まれている。

でも、それもまた芸術の一部のように、美しく感じられた。


空音はもう、誰にも見られることを望まなかった。朱音の目だけが、自分の全てだった。


「貴方は毒で、依存性がある、まるで優しい地獄ね」

ある日、空音はそう言った。

朱音は、その言葉に微笑み、そっと囁いた。


「ありがとう。君がそう言ってくれて、嬉しいよ」

そしてふたりはまた、互いの中に溶けるように眠りについた。

救いもない、終わりもない、でも確かに“美しい”愛の中で。



アトリエの窓は、いつも閉じられていた。

昼も夜も関係なく、カーテンの隙間からわずかに射し込む光だけが、ふたりの時間を分けていた。


「……最近、夢を見るの。あなたが私を、額縁の中に閉じ込める夢」

空音は、朱音に抱かれながら呟いた。

その声は眠気と混じっていて、曖昧で、現実のようでもあり幻想のようでもあった。

朱音は、空音の髪をゆっくりと撫でた。

まるで壊れ物を扱うような優しさで。


「それは、悪い夢?」


「ううん……あたたかい夢。暗くて、狭くて、息ができないのに、不思議と怖くないの」

朱音はそっと笑った。


「たぶん、それが“安らぎ”なんだよ」


空音はうなずいた。

思考は、どこか曇っていたけれど、それでも朱音の声だけは、身体の奥に染み込むように響いた。


「……ねえ、朱音。あなたの絵の中の私は、いつまで“生きてる”と思う?」


「ずっと、だよ」


「ほんとに?」


「うん。キャンバスは腐らない。絵の中の君は、永遠にそこにいる」


「じゃあ、私がいなくなっても……?」

朱音は黙って、空音の額にキスを落とした。

それが返事だった。


沈黙の中に滲むのは、未来への暗い予感。

けれど空音はその重さすら、甘く受け入れていた。

すべては、朱音の中にいるため。

自分の「本当の姿」が、朱音にしかわからないのなら――

それ以外の世界なんて、どうでもよかった。


「死ぬときは、あなたの目の中で死にたい」

その言葉に、朱音はただ頷いた。

それが、誓いのような、呪いのような、一線を越える合図だった。

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赤罪 角砂糖 @kakuzatou_115

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