赤罪
角砂糖
隣に咲く影。
幼い頃からずっと、朱音は空音の世界の中心だった。
隣の家の庭で遊び、学校の教室で並んで座り、夕暮れの帰り道もいつも一緒だった。
朱音は鮮やかな色彩を放つ花のように、どこにいても目を引いた。
誰もが彼女の才能を知っていて、その筆先から生まれる絵はいつも賞賛の的だった。
空音はそれを、静かに見つめるだけだった。
彼女も絵を描くことが好きで、努力を重ねていたけれど、朱音の輝きには届かないことを知っていた。
毎年の絵画コンクールでは、空音は必ず二位。
その一位は、いつも朱音だった。
「どうして、私はこんなに頑張っているのに、届かないんだろう」
空音は心の中で何度も呟いた。
両親は有名な画家で、空音にかける期待は大きかった。
だが、その目はどうしても朱音の才能に向けられているように感じてしまう。
ある雨の日、アトリエの窓から冷たい雨が静かに降り注ぐ中、空音は絵筆を握りしめていた。
彼女のキャンバスには、美しくもどこか儚げな色彩が広がっていた。
「もっと上手くならなきゃ」
小さな声で繰り返す。
その時、部屋の扉が開き、朱音が優しく微笑みながら入ってきた。
「空音、君の絵は十分に美しいよ」
けれど空音はその言葉を受け入れられず、視線を落とした。
雨の滴が窓を叩く音が、静かなアトリエに響いた。
空音は朱音の言葉に素直になれず、ただ俯いたままだった。
「朱音……私は、どうしてもあなたに勝てない。どんなに頑張っても、いつも二番目で……」
声が震え、言葉に詰まった。
朱音はそっと空音の手を取って握り締める。
「勝つことだけが全てじゃない。君の絵には君にしか描けないものがある」
その言葉に、空音の胸は締め付けられた。
彼女は幼い頃から、両親の期待に応えようと必死だった。
でも、いつもその影には朱音の才能があり、光があった。
「私だって……特別になりたい。でも、あなたは……」
涙がぽろりと零れ落ちた。
朱音は何も言わず、ただ空音の肩を抱き寄せる。
「僕は君の努力を見てる。尊敬している。
君は僕にとって、特別な存在だ」
だが、その言葉は空音の心に深く刺さり、混乱と嫉妬が渦巻いた。
⸻
数日後の学校の絵画コンクール。
空音はいつものように2位を獲得した。
表彰式の壇上で、彼女は朱音の絵を見つめた。
誰もが憧れる朱音の作品は、今年も群を抜いて輝いていた。
空音はその影に隠れる自分の姿を思い浮かべ、心の中で叫んだ。
「どうして……どうして私は、こんなに努力してもあなたに届かないの?」
その夜、アトリエの隅で一人、空音は朱音がくれた絵を掴んでいた。
指先が震え、絵をぎゅっと握りつぶす。
「嫌い……あなたの絵が、嫌い……!」
涙がこぼれ、彼女は声を殺して泣いた。
扉が開き、朱音が静かに近づいた。
「空音……?」
その瞬間、朱音の胸の奥で、愛おしさと痛みが同時に芽生えた。
朱音は静かに立ち尽くしていた。
目の前には、ぐしゃぐしゃに潰された自分の絵、そしてそれを抱きしめるようにして震える空音の背中。
月明かりの射さないアトリエの中で、朱音の瞳だけが深い暗闇の奥で静かに光っていた。
「……ごめんなさい……」
空音は呟いた。
謝罪とも、懺悔とも、あるいは哀願にも似たその声に、朱音は息を呑んだ。
「どうして、そんな顔をするの?」
朱音の問いかけに、空音はようやく顔を上げた。
涙で濡れたその瞳は、憎しみと悲しみと、諦めと、微かな愛情がないまぜになっていた。
「わたし……あなたの絵が嫌いなの」
喉の奥から絞り出すような声。
「嫌い。綺麗すぎて、完璧すぎて、どうしても追いつけなくて、だから……壊したくなるの。ずっとずっと、そう思ってた」
その言葉を聞いて、朱音はふっと微笑んだ。
その笑顔は優しさではなく、陶酔だった。
「そっか……そうだったんだ。
ねえ、空音……その顔、すごく綺麗だよ」
空音の眉がわずかに寄る。
「馬鹿にしてるの?」
「違う。心からそう思ってる。……僕ね、君が絵を壊すの、見てたんだ。君の手が、筆よりも真っ直ぐな感情を吐き出してるみたいで、すごく……好きだった」
空音の顔が驚きに揺れた。
「……見てたの?」
「何度も。でも、止めようと思ったことは一度もなかった。
むしろ、また見たいって思って……
それで、絵をプレゼントするようにしたの。君が、壊してくれるのを、ずっと、期待して」
「……最低」
空音の頬が紅潮し、唇がわななく。
「うん。僕は君のことを愛してる。でもそれは、たぶん君が望むような愛じゃない。君の苦しむ顔も、嫉妬も、劣等感も……」
「全部含めて、君が欲しい」
朱音の声は穏やかで、どこまでも真っ直ぐだった。
それが、空音には何より残酷だった。
「……あなたが欲しいのは、私じゃない」
空音は言った。
「あなたが欲しいのは、“あなたに劣っている”私でしょ?追いかけて、苦しんで、壊れかけてる私を見て、満足してるんだ」
朱音はその言葉を否定しなかった。
ただ、静かに微笑みながら近づいてくる。
「そうかもしれない。でも、僕は君のそういうところに惹かれてしまった。だから、どうしようもないんだ」
空音は、心の奥底にある黒い感情が、暴れ出しそうになるのを必死に抑えていた。
それでも、涙は止まらなかった。
「朱音、私ね。小さいころからずっと、あなたの隣にいた。あなたと同じように絵を描いて、あなたと同じくらい褒められたくて……。
でも、あなたは何もしなくてもすごかった。私は、努力して、努力して、努力して……それでも届かなくて、コンクールの結果を見るたびに、1位に書かれた“朱音”の名前が焼き付いて、家に帰って誰にも見られないように泣いた。私、両親に認められたかった。」
朱音の瞳が揺れる。
空音は言葉を止めない。
「あなたがいなかったら、私は“天才”だったかもしれない。でも、あなたがいたから、私は“凡才”だった。
……あなたが、私を凡才にしたのよ」
言い終えた瞬間、アトリエの空気が冷たく変わった気がした。
外ではまだ、雨が降っていた。
朱音はその場に立ち尽くし、目を伏せた。
そして、数秒後にぽつりと言った。
「ありがとう、空音。……やっと、本当の君に会えた気がする」
「……なに、それ」
空音は唇を噛んだ。
朱音の、少しだけ安堵したような笑みが憎らしかった。
「そういうところが、嫌いなの。あんたって、どこまでも冷静ぶってて、どこまでも優しくて、でもその優しさの中に毒があるの。私の苦しみを肯定して、それで満足してる」
朱音は少し考えるようにして、目を細めた。
「そうだね。僕はたしかに、毒だ。でも、君はその毒に抗わず、ずっと僕の隣にいた。逃げられたのに、逃げなかった。
……僕を選んだのは、君なんだよ」
空音は思わず、唇を噛みしめた。
「君は、僕が描いた絵を嫌いだと言ったけど、本当は、僕の絵を壊すことでしか、自分を守れなかったんだ。それも、僕にはちゃんと伝わってるよ」
その瞬間、空音は言葉を失った。
朱音の目は、全てを見透かすように澄んでいて、怖かった。
「……あなた、ほんとうに最低ね」
そう呟いた空音の声は、震えていた。
朱音は微笑んで、囁いた。
「でも君は、その“最低な僕”から、もう逃げられないでしょう?」
アトリエの雨音が、ふたりの沈黙に寄り添うように、優しく降り続いていた。
朱音の指先が、そっと空音の頬に触れる。
それはまるで、絵筆がキャンバスに触れるときのような、慎重で、繊細な動きだった。
「君の中にある感情、全部美しいよ。嫉妬も、劣等感も、怒りも──ぜんぶ、絵になる」
空音は目を閉じた。
まるでその言葉に、触れてはいけない部分まで見透かされたようで、息を呑むしかなかった。
「ねえ、空音。……君が僕を嫌いだって言っても、僕は君を手放さない。だって君は、僕の一番大切な“モチーフ”なんだから」
空音はその言葉に、喉の奥からこみ上げてくるものを堪えきれず、嗚咽を漏らした。
「どうして……どうしてそんなことが言えるの……」
「だって、本当の君は誰よりも美しい」
朱音はそう言って、破かれた絵の断片を拾い集め始めた。
床に落ちた紙の破片を、まるで壊れた欠片のように、そっと手のひらに乗せて。
「これは、君の“傷”だよね。それなら、これでまた一枚、新しい絵が描ける」
空音は呆然とそれを見ていた。
朱音の表情は静かで、優しくて、どこまでも狂っていた。
「……あんた、ほんとに絵しか見てないんだね」
「違うよ」朱音はすぐに否定する。
「君だけを見てる。君の表情、感情、声、すべてが、僕の目に焼きついてる」
空音は心臓を握られるような感覚に、震えが止まらなかった。
朱音の愛は、優しさの仮面をかぶった毒だった。
どこまでも甘くて、どこまでも堕ちていく味。
「……わたし、壊れちゃうよ」
「うん、壊れて。
君が壊れるまで、僕は描き続けるから」
その言葉が、最後の一撃だった。
空音はゆっくりと膝をつき、破れた絵の端を拾い上げた。
そこに描かれていたのは、優しい笑顔を浮かべた“空音”だった。
だけど──そんな顔、空音は一度も見たことがなかった。
「ねぇ朱音……この絵の私って、ほんとに存在したのかな」
「うん、僕の中に」
その返事は、救いだったのか、呪いだったのか。
答えはもう、どちらでもよかった。
雨は止んでいた。
アトリエの窓の向こうに、曇った空からわずかな光が射し込み始める。
空音の瞳には、その光は届かなかった。
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