第2話『食べることは罪ですか?』
絶食塔の301号室。
白い壁、白い天井、白い床。まるで、色彩まで摂取制限されているかのような空間。
「今日で3日目……」
私は、かすれた声でつぶやいた。
与えられるのは、1日3杯の水だけ。それも、「浄化水」と呼ばれる、ミネラルすら除去された純水。栄養素はゼロ。文字通り、ゼロカロリー。
ベッドに横たわると、天井のスピーカーから自動音声が流れる。
『空腹は美徳。飢餓は聖域。あなたの脂肪が燃える音を聞きなさい』
24時間、15分おきに流れる洗脳メッセージ。
最初は反発していたが、3日も経つと、もう抵抗する気力もない。
体が、変化し始めていた。
手足の先が冷たい。立ちくらみがする。髪を触ると、数本抜ける。
——これが、飢餓の現実。
前世の知識が、冷静に自分の状態を分析する。
基礎代謝の低下、筋肉の分解、免疫力の低下。このままでは、本当に死ぬ。
でも、この学園では、それが「美しい」とされる。
BMIが下がれば下がるほど、魔力は上がる。
食べなければ食べないほど、社会的地位は上がる。
なんて、歪んだ世界。
扉が開いた。
「様子を見に来たわ」
入ってきたのは、看守のリナ。BMI16.8、青い制服の准エリート。
「食欲は弱さの証明。それを克服できない者に、この学園にいる資格はない」
まるで録音された音声のように、彼女は言った。
でも、よく見ると、その手が微かに震えている。
「あなたも、お腹すいてるんでしょ?」
私の問いかけに、リナの動きが止まった。
「何を、バカなことを」
「じゃあ、なんで震えてるの?低血糖の症状よ」
リナは慌てて手を後ろに隠した。
「これは……ただの緊張で」
「嘘」
私は体を起こした。めまいがするが、気力で耐える。
「知ってる。みんな、コーヒーとかエナジードリンクで誤魔化してるんでしょ?カフェインで空腹を忘れようとして」
「黙りなさい!」
リナが叫んだ。でも、その声は涙声だった。
「私だって……私だって、本当は……」
彼女は崩れるように座り込んだ。
「パンケーキが、食べたい……」
絶食塔の看守が、収監者の前で泣いている。
なんて皮肉な光景だろう。
「いいよ」
私は優しく言った。
「食べたいって思うのは、普通のことだから」
その時、壁の向こうから声が聞こえた。
「そうだ!俺も食べたい!」
隣の房の収監者だ。
「私も!」
「僕も!」
次々と、声が上がる。
絶食塔には、常時50人以上が収監されている。みんな、「食べ過ぎた罪」で。
でも、食べ過ぎたって、せいぜい600キロカロリー。普通の世界なら、朝食にも満たない量。
「みんな、聞いて」
私は壁を叩いた。
「知識が、私の最後の武器になる」
そして、前世の記憶を総動員して語り始めた。
「人間の脳は、体重の2%しかないけど、エネルギーの20%を使う。そして、脳が使えるのは、ほぼブドウ糖だけ」
隣の房から、食い入るような気配を感じる。
「極端な糖質制限は、思考力を奪う。判断力を鈍らせる。そして最終的には——」
「やめて!」
リナが耳を塞いだ。
「そんなの、聞きたくない!」
「でも、真実よ」
私は続けた。
「知ってた。食べなければ痩せるって。でも、それで失うものの大きさも知ってる」
記憶が、鮮明に蘇る。
前世で出会った患者たち。
拒食症で苦しむ少女。
過度なダイエットで体を壊した女性。
スポーツ選手なのに、食事制限で成績が落ちた青年。
みんな、「痩せること」に囚われて、「生きること」を忘れていた。
5日目。
もう、立つこともできない。
でも、不思議なことに、頭だけは冴えている。
飢餓の極限状態で、前世の記憶がさらに鮮明になっていく。
栄養学のテキスト、医学論文、臨床データ。
全てが、図書館のように整理されて、脳内に広がっていく。
扉が開いた。
今度は、名倉先生だった。
「どう?反省した?」
先生の顔も、よく見ると疲れている。目の下にクマ、肌は乾燥、髪には艶がない。
「先生」
私は最後の力を振り絞って言った。
「知ってますか?摂食障害の死亡率は、20%近いって」
先生の顔が引きつった。
「な、何を」
「極端な食事制限は、心臓の筋肉まで分解する。不整脈、心不全、多臓器不全……」
「やめなさい!」
「骨密度は低下し、歯は抜け、髪は薄くなる。ホルモンバランスは崩れ、不妊のリスクも——」
「やめて!」
名倉先生が泣き出した。
40代の教師が、15歳の生徒の前で、子供のように泣いている。
「私は……私は、生徒を守ってるつもりだったのよ」
「守る?」
「社会に出て、太ってたら差別される。美しくなければ、誰も振り向いてくれない。だから、今のうちに——」
「それで、生徒を殺すんですか?」
私の言葉に、先生は顔を覆った。
「もう、遅いのよ。このシステムは、変えられない」
「本当に?」
6日目。
意識が朦朧としている中、面会者が来た。
「あなたが、ミナ・ノリーナね」
声の主を見て、驚いた。
保健室の主、ユウト・サガラ。学園で唯一、まともな体型を保っている男子生徒。
「なぜ、あなたは痩せてないの?」
私の問いに、ユウトは寂しそうに笑った。
「保健委員は、特別に栄養摂取が許可されてるから。『医療行為に必要な体力維持』って名目で」
彼は、小さな包みを取り出した。
「これ、こっそり」
中身は、ブドウ糖のタブレットだった。
「ありがとう……でも、いいの?」
「姉さんを、見殺しにしたから」
ユウトの表情が曇った。
「3年前、姉さんもこの塔に入れられた。1ヶ月後に出てきた時には、もう手遅れだった」
彼の拳が、震えていた。
「姉さんは"美しくなりたい"って言いながら、どんどん壊れていった」
「ユウト……」
「だから、もう誰も死なせない。この狂った学園を、変える」
7日目——最終日。
解放の朝。
扉が開くと、信じられない光景が広がっていた。
廊下に、100人以上の生徒が集まっていた。
灰色も、緑も、そして青い制服の生徒すらいる。
「ミナさん」
最前列の少女が言った。
「あなたの声、塔の外まで聞こえてた。『知識が武器になる』って」
別の生徒が続いた。
「私たち、調べたの。本当に1日500キロカロリーで生きていけるのか」
「結果は?」
「無理だった」
みんなが頷いた。
「基礎代謝以下の摂取は、体を壊すだけだって」
看守たちが止めようとしたが、もう遅い。
知識の種は、すでに芽吹いていた。
保健室のベッドで点滴を受けながら、私は決意した。
この学園を変える。
知識を武器に、真実を広める。
食べることは、罪じゃない。
その当たり前を、みんなに伝えるために。
「次は、カロリー法廷ね」
ユウトが言った。
「君の知識と、僕の立場を使えば、きっと勝てる」
窓の外では、春の日差しが差し込んでいた。
希望の光のように。
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