3

 さて仕事に出よう、という時になって雨が降ってきた。雨中では、いつものように屋外で歌い踊って投げ銭を貰うわけにはいかない。


 そういうわけで瑶子と紗百合は、界隈でただ一軒の寄席に飛び込み、今夜の出演を交渉するに至ったのだった。


「ふーん、うちで一晩だけやらせてもらえないか、ねえ。そうはいっても、これでも色々と手続きなんかあってねえ」


 寄席の支配人といった格の男は、八字髭をひねくりながら、噛んで含めるように諭す。しかし紗百合も負けずに、言い返す。


「でも私達、それなりに知られているんです。縁日なんかではずっと人だかりができるくらいだし。……少なくとも、外の看板に描いてある『尾下竹之介一座』よりはお客さんを集められると思います」


 相手はウッと怯んだ。実際、「尾下竹之介一座」は数日前からここで興行していたが、芸も姿も大してよろしくないので、頗る評判が悪いのである。気の短い奴など、「引っ込め下手糞ーッ」「そんな岩みてえな女形は真平御免だぞーッ」と客席から怒鳴る始末。それが初日のことだから、今日あたり物が投げられてもおかしくない。いや、そもそも、お客が来るのかどうかさえ、今のままでは甚だ怪しい。


「……わかった。では、こうしよう。一座の前座として、六時から舞台に立ってもらう。前座とは言ったが、もしお客が望むようなら、その後の時間も好きなだけ使ってくれて構わない」

「ええ、ようございます。よろしくお願いしますね」


 嫣然と微笑んで、二人は、一座とは離れたところの楽屋に向かった。


 夕方までには、寄席の外には「尾下竹之介一座」の看板の隣に、少し小さめだが「漂泊の美しき踊子による唄と踊」と描かれた板切れが掛けられた。そのおかげか、お客なしという事態はとりあえず回避され、それなりに数が入った。


「『漂泊の美しき踊子』って、誰だい。変な奴だったら俺は出て行くぞ」

「ほら、例の二人連れの可愛子ちゃんじゃないかい。この頃近くの祭や何かで評判が良いらしいぜ。そろそろうちの所にも来るだろうと思っとったんだ」

「そんなホラを吹いて、それであの岩みてえな女形の変装だったら縁を切るぞ」

「ワハハハハ……」


 楽屋の方までも響いてくる賑わいに、紗百合も瑶子もほくほく。


「この分ならたんまり稼げそうね、瑶子」

「そうなれば嬉しいわね。私ちょっと、様子を見てくるわ」


 瑶子は立っていって、舞台の隅の、閉じた幕の隙間から客席を窺い見た。


 開幕十分前で、ほぼ満席である。中には、酒の徳利や猪口、弁当なんかを広げている者もいる。全体をずーっと見回してみて、瑶子はど真ん中で酒の猪口を頻りに呷っている男に目を留めた。――途端に顔が青ざめる。


「……紗百合、紗百合、早く来て」

「何よ、どうかしたの」

「いるのよ」


 息せき切って楽屋に舞い戻ってきた瑶子の怯えた様子を目にして、ただ事でないと察した紗百合は自ら先に立って舞台に行く。


 横で瑶子の説明を聞きながら紗百合は、同じように幕の間を覗き見た。件の酒飲み男は、富貴邸で庭師をしていた者で、瑶子とも面識があるという。一介の住み込み庭師がこんな所にいるわけはないから、主の命を帯びて瑶子を捕えに来たと考えるのが妥当だろう。


 紗百合はなおも彼をじっと観察していたが、ふと彼の猪口を持っているのとは反対の方の手に、ちらりと強く光る物をみとめた。それは、この大衆寄席には相応しくない色彩を持っているらしく思われる。――にやりと笑って、紗百合は小声で告げた。


「私、追い出してくる。あんたはギターの準備をしといてね」


 そしていきなり、幕の端をからげて颯爽と客の前に姿を現したのである。


 突如として登場した華やかな人影に、客の男達は一瞬呆気に取られた後、盛んに囃し立てた。「いよーっ美人のねえちゃん」「待ってましたアー」声援、口笛、拍手の飛び交う中を、紗百合はしゃなりしゃなりと歩んでいく。自慢の紅唇に、こぼれんばかりの愛嬌を湛えて。


 客席の真ん中で、酒を飲んでいた庭師の男も、上機嫌で徳利を振り回しそうにしている。彼の目の前で例の美女が足を止め、顔を近づけた時など、相好崩して歓喜した。


「随分、飲みっぷりがいいのね、おにいさん。さては懐が温かいのかしら」

「おう、そうよ、可愛子ちゃん」

「その手に握っているのは何? さっきちらりと見えたわよ。ねえねえ、見せて下さるわね」


 甘ったれるように男の両肩を揺さぶる紗百合。周囲の男達の、羨望と嫉妬の視線。男は鼻の下を伸ばして、わざと勿体ぶってみせる。


「可愛子ちゃんに頼まれちゃあ、見せずばなるめえなあ。……これよ」

「どうれ?」


 男の広い肩にのしかかるようにして、掌に収まったその光るものを、紗百合は暫しじっと見つめていた。


「どうだ、綺麗だろう」


 彼は自慢するつもりか、天井の灯を受けて石が光るよう、掌を左右に少しずつ傾けてみせる。


「ええ、確かに綺麗ね」

「そうだろう、そうだろう」

「でも、これ偽物よ」

「何イッ」


 驚いた拍子に、掌から転げ落ちる指輪。周囲の視線が、その一点に集中する。――紗百合は事もなげに続ける。


「それ、多分ルビーを模したものね。その大きさで本物だとしたら、島がひとつ買えるんじゃないかしら。そもそも、その大きさのルビーが出回ったらまず新聞で取り上げられているわよ、アッハハハ」

「本当かい、本当に偽物なのかい」


 彼は一転、泣き声を出しつつ指輪をためつすがめつしている。まるで、何度も見ているうちに本物になるのだと信じ込もうとする人のよう。しかし、現実は非情である。


「残念ながら、おにいさん。ルビーだけに、真赤な偽物です」

「ウッ……畜生ッ! あのあまっちょめ、よくも騙しやがったなッ」


 怒り任せに指輪を床に叩きつける男。その弾みに指輪は、輪の部分と石とが分離してしまった。石の方は空の徳利に当たってカチャンという情けない男を立てて転がった。――紗百合が拾い上げると、よく観察するまでもなく、二本のヒビが入っていた。


 男はまだ、「あのアマ、あのアマ」と毒づいている。他の客の、からかい気味に尋ねる声。


「あのアマってえ、誰なんだい」

「富貴家の娘さ! あのアマ、これをやるから人を探して来いなどと……冗談じゃねえや」


 男は徳利も猪口もそのままに、ぷりぷりと怒って寄席を飛び出していってしまった。――紗百合は瑶子に約束した通り、彼を見事追い出してみせたのである。そして彼が今後、命令を忠実に守って二人を付け狙うことは、絶対にないであろう。


 ひとつの危機を脱した紗百合の表情は、勝利の輝きに満ち満ちている。


「さあ、皆々様、舞台にご注目! これから存分に歌って踊るわよ。幕を開いて!」


 裏方が幕を引くと、戸惑い気味の瑶子がギターを抱えたまま、突っ立っている。こちらも愛らしい少女の出現、観客は先にも増して大歓声を上げた。その勢いのまま紗百合は舞台に飛び上がって、得意の歌を朗々と歌い始めた。


 恋しお方と出会うたはア……桜咲く頃、花見頃オ……


 この晩、紗百合達は結局、「尾下竹之介一座」の分の持ち時間まで頂戴して公演をやり遂げた。寄席の支配人も、予想外の収益に大喜び。客が帰った後、二人に「大入り袋」と書いた分厚い封筒を手渡すだけでなく、わざわざ宿屋へ送り届けるための車まで呼んでくれる始末だった。


 この一連の出来事の中で、泣き面を見たのは、例の庭師の男を除けば、「尾下竹之介一座」の者達くらいなものであったろう。殊に、ごつごつの岩みたいな顔に髭の剃り跡青々しい看板娘(?)は、二人の踊子が車に揺られて帰る様を、手巾噛みしめながら見送った……とかいう話である。

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