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踊子に化け込んだ紗百合と瑶子が目を覚ましたのは、夕方も暮れ近くなってからだった。
「あんまり気持ちよさそうに眠っているから、起こすのも可哀想でねえ」
二人を荷台に乗っけてくれた曲馬団の座長は、笑み混じりに言う。そして、今後の自分達の興行先について告げ、よかったらそこまで同道してはどうかと勧めてくれた。
「ありがとう。でも私達の仲間は市の方面に向かったはずなの。あなた方とは別の道になるわ。ご親切にそむいて済まないけれど……」
「そうか、それなら残念だが仕方がない。またどこかの興行先で再会できることを願っているよ。……しかし実に残念だ。いずれはこの興行界の大立て者になると見込んで、是非とも仲間にしたいと思っとったが」
紗百合達は、次の町に差しかかる辺りで、曲馬団の人々と別れ合った。情に厚い彼らは、ただ夜会服を売っただけの小娘をも、親しい友同様に扱った。別離の握手を交わしたり、道を分かつ時には姿が見えなくなるまで見送ったり。……そこには、夜会服三円也で譲ったということには全く関係のない、人間の最も美しい特質が発露している。
やっぱり人って、温かい、尊いものなのだわ。瑶子は自らも手を振り返しながら、そうひしひしと感じられて、知らず知らずのうちに涙ぐんでさえいた。長く虐げられてきた彼女ゆえ、人の良心は一層身に沁み入るのである。
二人は、その夜は町の宿屋に泊まり、翌日からは愈々踊子として旅路を行くこととなった。
この日はよく晴れた祭日で、町の歓楽地は相当の人出。つまりは絶好の興行日和というわけで、到る所に奇術や見世物のテントが建ち、数多の芸人が辻々で腕を競っている。
「私達どこでやろうかしら」
「あそこは? 赤白の小屋の横。今ちょうど、大道芸人の一行が引き揚げるところよ」
瑶子が目ざとく見つけた、ほんの畳二枚分程度の空間。二人はそれっとばかりに駆けつける。好立地は早い者勝ちなのだ。幸い、二人以外にこの場所を見つけた者はなかった。
「ねえ紗百合。私達は踊子になったけれど、一体どんなことをしたらいいの?」
「そりゃ、モチ、瑶子のギターに合わせて私が踊ったり歌ったりするのよ。曲は、そうね、流行唄がいいわね。小難しいのをやったってウケないんだから」
「でも私、流行唄知らないのよ」
「ここに来るまでに、道行く人や、艶歌師が歌っていた曲があれば、それでいいの。何かしらは思い出せるでしょ。例えば、ほら、『恋しお方と出会うたは、桜咲く頃、花見頃』……って」
確かにその素朴で単純な曲調は、瑶子も知っている。富貴邸にいた頃、使用人が口ずさんだり、農民が農作業中に大声で歌ったりしていたのを耳にしたことがあった。記憶を手繰り寄せるように、彼女はギターの弦を爪弾き始めた。
「恋しお方と出会うたはア……」
「ちょっと紗百合、まだ歌っちゃ嫌よ、これは試しに弾いているだけなんだから……」
「大丈夫、いいから弾いて! 人が望むのは正しい音楽じゃなく、楽しい雰囲気なのよ」
恋しお方と出会うたは 桜咲く頃、花見頃
花にまぎれて忍び寄る 恋しお方の深情け
紗百合の朗々とした歌声と、瑶子の慎ましやかなギターの音。耳馴染みのある流行の小唄を、美しい少女らが奏でているというので、辺りには次第に人が集まり始める。こうなると、一層興が乗るのが紗百合の性質で、表情や身振りも段々派手になっていく。
春の盛りの川端を そぞろ歩きて微笑みぬ
恋しお方に寄り添いて 春は楽しく過ぎ去りぬ
悲しきものは雨風よ 見頃の花も恋もまた
強き嵐になぶられて 跡形もなく散り果てぬ
恋しお方は目と鼻の 先にいながら、口惜しや
我と別れて今ははや 他人のものとはなりおるを
夏の盛りの青葉にも 秋の盛りの紅葉にも
恋の痛みを沁み込ませ ふたつに折りて封じ文
折られし葉をば見る時は 我が情けと思し召せ
恋しお方を思い泣く 悲しき涙と思し召せ
情緒たっぷりに歌い上げた紗百合。夢心地に聴いていた聴衆はこの時我に返って、盛んに拍手や歓声を送る。
「いよっ、いいぞー、ねえちゃん!」「うまいぞーっ」
「ありがとうございます」
紗百合はここぞとばかりに愛嬌を満面に――殊にその紅唇に――湛えて微笑み、礼を言った。その度に彼女の手にする帽子の中に、小銭が投げ入れられるのだった。雨あられのように、ひっきりなしに……。
「ねえちゃん、他にもやってくれよ」
「そうねえ、何がいい? 今度は踊りにしましょうか。活動でしか見たことないような、珍しいのをね」
鳴り渡る拍手、口笛。小銭で重くなった帽子を後方にどけながら、紗百合は瑶子に囁く。
「今度は流行唄やれなんて無茶言わないから、何か明るいものをお願いね。有名だろうが無名だろうが、何でもいいわ」
「ええ」
瑶子は少し考えて、基本となるリズムを奏で、その上に即興的な装飾を時々付していくことにした。これならば聴衆を飽きさせず、かつ反応を見ながら伸ばしたり縮めたりできる。
暫くは緊張から手元ばかり見ていた瑶子だが、形式が定まってしまうと、少しは紗百合の方を見やる余裕も出てきた。
彼女の踊りが上手いのか下手なのか、瑶子にはよくわからない。でも、そこらではお目にかかれないほど奔放で、得も言われぬ魅力に溢れていると思った。チャールストンに優美さを与えたような感じというのか、庶民と貴人の間で育ってきた彼女らしい踊りであった。
紗百合の踊りと瑶子のギターは、その後ももう暫く続いた。二人が目配せし合って漸く演奏を終わらせた時でさえ、観衆はまだまだ物足りないという顔をしていた。それでも紗百合の額に大粒の汗をみとめると、「ねえちゃん、よう頑張ったなあ」と労わって、先より多くの小銭を弾んでくれた。
二人はこの日、合計して四円の稼ぎを得た。――祭りの喧騒から少しばかり離れたところに、高級すぎず廉価すぎない宿屋があった。二人はそこの一室に、疲労した身体を横たえたのだった。
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