11

 部屋の扉を閉じるや、若子は怨嗟のこもった声でこう告げた。


「……瑶子。私はもう、あんたという存在にうんざりしているの。汚らわしくって、疎ましくってならないのよ」

「私が人目に立ちましたのが、いけませんでしたら、謝ります」

「人目に立つだけじゃない、全部よ! あんたの全部――その顔も、その声も、その手足も身体も、思考も趣味も何もかもが、癪に障ってならないのよ!」

「まあ、そんな……」

「あんたは私を陥れようとしている。私が良家の令嬢だから、私の持っているものを奪おうとつけ狙っているんだわ。私の人望、私の名声、私の財産……」

「お嬢様、私そのようなことは決して考えたことはございませんよ」


 いくら瑶子が穏やかに言って聞かせても、無駄だった。若子はますます猛り立つ。


「白々しい! そう言って私をなだめすかして、いずれ玉座から引っ張り下ろそうっていうんだわね。ふん、あんたはおばあさまに『本物を見極める目』を持っているとちやほやされたでしょうけど、それなら私にだってあるわ。あんたという人間が、本当は汚らわしい、生きていてはいけないような存在だと、私と母様はこの目で見抜いていたんだわ。私と母様だけが!」

「まあ、お嬢様。誤解でございますわ、そのおっしゃり方はあまり酷い……」

「ああら、あんた泣いているのね! 嘘の涙、嘘の涙! あんたの目はとても美しいなんてちょっと評判になっているそうだけど、きっとそうやって嘘の涙で湿らせて、純朴な人を騙しているだけなんでしょう。私は騙されないわよ、ホホホ……」


 若子の目には異様な光が宿っており、その口元は、飛びかかる前の獣のように歪んでいる。思わず後ずさりする瑶子。


「これ以上、私以外の誰かがあんたに騙される前に、予防措置を取らなくちゃいけない。富貴子爵家の娘としてね。ホホホ……そうね、明日には『処刑』の指令を出すわ。あんたも見たことあるでしょう、火あぶりの刑を。村人が大喜びで、火の前に群がっていたのを」


 言いながら若子は、卓上のベルを鳴らす。女中や書生を呼ぶ時の合図だ。程なくして、女中が恭しく扉を開けた。


「ひさ! この娘を蔵に閉じ込めておいて」


 この女中はよく飼い慣らされているので、なぜとも何とも言わなかった。ただ命じられた通りに、機械人形のように瑶子を蔵――洋式化した富貴邸の中で唯一残された古い建築物――に案内した。


 女中について廊下を行きながら、瑶子は自分の取るべき行動を急いで考えて取りまとめようとした。


(お嬢様は誤解していらっしゃるんだわ。私が何か悪意を持っていると……。でも、お話ししても聞き入れてはもらえない)

(今夜はこのまま蔵に寝泊まりして、お考えの変わるのを待とうかしら。一晩寝れば怒りも鎮まるかもしれないし……でも、鎮まらなかったら。寧ろ、増幅されていたら、私は火あぶりにされてしまう)

(卑怯かもしれないけれど、隙を見て逃げ出すのが、一番よい案かも……)


 その時になって彼女は、自分がギターを手にしたままだということに気がついた。そして、それを使ったある名案が浮かんだのである。


 女中と瑶子が、邸の外に出て数歩進んだ頃。瑶子はひっそりと、抱えていたギターの弦を適当に緩めた後、指で思い切り摘まんで離した。


「ギャアッ、化物ッ」


 辺りにこだまする、ブヨンブヨンという奇怪な音に、女中は飛び上がって叫ぶ。その隙に瑶子は一目散に走り出した。数秒の後に女中が見回しても、夜の闇に紛れて見えなくなっていたであろう。


 まだ祖母の弥栄が生きていた頃、瑶子は調律を忘れたまま曲を弾き始めて、妙にブヨブヨした音が出ると思ったら……と祖母と二人で笑い合ったことがあった。それが咄嗟に頭に思い浮かんだので、一か八か、大音響で同じことを繰り返してみたのである。


 ともあれ彼女は、追手の来ないうちに走り続けた。自分がどこを走っているかもよくわからないまま、ただ富貴邸からできるだけ遠く離れることだけを考えて、走り続けた。


 そうして、追手は来ず、といって行くべき方向もわからぬ、薄く月が光るだけの心細い夜の道をとぼとぼと歩いている間……紗百合の運転する車に拾われたのだった。




「――私、ざっとそういうわけで、逃げて来たのよ」


 実際は今まで書いてきたほど詳細ではないが、大体彼女がどんな境遇に生まれ育ち、どんな理由でひとりぼっちの逃走を試みていたのかは、紗百合にも十分呑み込めた。

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