10

 女中部屋からギターを持って、大広間に入ると、待ちかねたように恵美子が駆けてくる。


「瑶子さん! さあこちらよ……そうね、何か十八番があれば弾いて下さらない」

「十八番というほどのものも、ございませんの」

「謙遜なさって。では、何かダンス用のを、弾いてよ。あちらの眼鏡の方ね、帝都ではダンスホール荒らしで通っているんですって。……私、あの方に踊りを申し込まれたのよ」

「私のギターなんかを伴奏にして、よろしいんですの。楽団もおりますのに」

「いいのよ、さあ、早く」


 話しながら前に押し出された瑶子。人々が一斉に拍手で迎えてくれる。瑶子は恥じらいつつも礼をして、ギターを構え、爪弾き始めた。……清水の流れるようなメロディーが紡ぎ出され、人々はうっとりと聞き惚れた。彼らは大広間の隅の方にいたが、耳慣れぬ、しかし甘美な音色を聞きつけた招待客がぱらぱらと集まってくるので、その輪は次第に広がっていった。


 帝都のダンスホール荒らしは、興が乗るのか、相手役の恵美子を振り回す勢いで激しく踊る。恵美子もダンスの名手として地元の社交界では有名なのだが、相手にリードされっぱなしで、頬をうっすら上気させてすらいる。人々の眼差しはこの二人と、その奥で異国風の音楽を奏で続ける明眸の少女を行ったり来たり。その間も、観客はどんどん増えていく。こうなると、パーティーの主催者であり主役を自認する、辰代と若子も気づかないわけはなかった。


 殊に若子は、輪の中心にいるのが、軽蔑の対象たる瑶子であり、仲の悪い恵美子であることが何より癪に障った……。


 そんなこととは知らぬ恵美子達は、既に一曲目を大反響裡に終えて、二曲目にかかろうとしていた。


「先程の、あなたのオリジナルですか? 巧みなものです。今度はラテン風のがいいんだが、できますかな」

「ええ、蓄音機で聴いたことはございますから……」


 自信なさげに言うものの、彼女の演奏するタンゴは実際見事なものだった。ダンスホール荒らしは先にも増して、夢中になっている。


 ……と、ふいに横合いから、キイキイと甲高い、錆びついた、耳障りな音が響き始めた。


「何だい、あの音は」


 荒らし氏が踊るのをやめ、恵美子も足を止め、瑶子もギターを弾く手を止める。心地よい空間は一瞬にして崩壊し、代わりに例の不快な音だけが辺りを我が物顔に漂う。


 その正体はすぐにはっきりした。若子が、瑶子のギターに対抗して自分のヴァイオリンを持ち出してきたのだった。


 若子は、瑶子の安っぽい楽器の安っぽい音楽より、自分の高級な名器で奏でる音楽の方が優れていると思っていた。そして人々は、より優れた方に喝采を送るものだと考えていた。だから、瑶子の演奏を中断させるように音を奏でていけば、人々の称賛の視線はこちらに向くと信じたのである。


 しかし彼女は、舶来の名器を父にねだって買ってもらったものの、また優秀な音楽教師を雇ってもらったものの、真面目に練習しないので未だに満足な演奏ができなかった。しかし周囲が頻りに褒めそやすので、自分の下手さに気づかないまま、今夜のような暴挙に及んだのだった。


「あら瀬戸さん、棒沢さん(というのが荒らし氏の名だった)、踊りはもうよろしいんですの。私の方で続きを弾いて差し上げましょうか、ホホホ……」

「冗談じゃない。誰があんなヒステリー症のヴァイオリンなぞ聴くものですかね」


 ダンスホール荒らしこと棒沢氏は、どこまでも自分に正直だった。ここ富貴村の事情に疎い彼は、子爵夫人と令嬢を貶す語句は全て禁止、という暗黙の掟を当然知らなかった。周囲の人々が、来るべき雷を恐れてこそこそと大広間のあちこちに散っていったり、帰り支度をしたりしていても、まだ中々呑み込めないようだった。


「あのね、棒沢さん。このお嬢さんはここら一帯の権力者なのよ。ちょっとでも貶したりクサしたりすると、罰せられるわよ」


 恵美子が扇を耳元で広げて、小声で進言する。


「罰する? 何をするんだい、法律で悪口が禁じられているとでも?」

「富貴子爵家の逆鱗に触れれば、それが即ち罪なのよ。今までに何人もの人が……」


 この小声でのやり取りの間に、若子の怒りの矛先は、瑶子へと向いていた。帝都から来た大切な客である棒沢、富貴家に次ぐ名門の娘・恵美子を大っぴらにやっつけることは難しいので、その分の怒りも投げつけてやらなくては済まなかった。


「瑶子さん(人前ではさしもの若子も、こう呼ぶ外なかった)! あなたはお客様に申し訳ないとは思わないの。あなたが不愉快な音楽を始めるから、皆さんお離れになっていったんじゃないの」

「申し訳ありません」


 瑶子は素直に頭を下げた。自分のギターが不興を買ったはずはないと、自分でもわかってはいたが、若子の怒りを鎮めるにはこうする他はない、と長年の習慣で理解していた。


 いつもならば、一度か二度頭を下げ、その後沈痛な面持ちを保ってさえいれば、若子の機嫌もじきに直る。が、今夜は別に虫の居所が悪かったのか、それとも……最初からこうすることを目的にし、その機会を窺っていたのか? ともかくも若子は、瑶子に自室へついて来るようにと命じた。

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