5
瑶子は、利男ら一家とその一派を除けば、誰にも好かれた。村人にも、黒眸の美しい、心優しい養女の存在は尊敬と愛を以て語られた。
しかしながら、彼女は「不幸」という甚だ有難くないものにも好かれているのだろうか。或いは、「不幸」が彼女を愛する者に嫉妬したのだろうか。ともかくも彼女は、唯一人の味方であった祖母の弥栄を永遠に失ったのである。まだ風寒き三月の初めのことだった。
亡くなるたった二日前に、気分が悪いといってそのまま寝ついてしまった祖母を、瑶子は誰よりも親身に、熱心に看病した。
しかし、祖母は、自分の死期を悟ったのだろう、打ち沈んだ声で瑶子にこう言い渡した。
「瑶子や。今まで本当に、この婆によくしておくれだったね。どんなに感謝してもし尽くせないほど、有難く思っている。……前に話したっけねえ、あの蒔絵の箱のことを」
「はい」
「あれだけは、決して、決して、売ってはならないよ。この富貴家の由緒正しき宝だからね。……瑶子、最後にこれをあげよう」
祖母は、瑶子の介助を受けながら、懐から掌ほどの巾着袋を取り出した。
「お守りにしてはちょっとばかり大きいがね。身に着けて、離さないようにね。婆の心づくしだと思って、大事にしておくれ」
「おばあさま、そんなことおっしゃらないで……」
「いいや、もうあの世が近いことはわかっておるのだ。今際の別れに、瑶子や、あのギタラを弾いておくれな」
強いて微笑んでみせようとする祖母を前にしては、言う通りにする外ない。瑶子は急いでギターを取ってきて、再び祖母の枕辺に座す。
そうして、哀しくも穏やかな弦の音に包まれながら、祖母、富貴弥栄は黄泉への橋を渡ったのだった。
長年、村の長として君臨した女傑だっただけに、葬儀も盛大に執り行われた。ハハキトクの電報を受け取った長男の日出海も、死に目に会えなかった悲しみを噛みしめる間もなく、諸々の儀式や手続きに忙殺された。
焼香の客達を漸く捌き切って、日出海は疲労した身体を畳の上に投げ出した。ここは瑶子の住まう六畳間……今夜は父娘揃って、この部屋に泊まる。
「お父様、寝転がるならお布団を敷きましょうか」
「ああ済まないね、瑶子。……どうしたんだい」
「え?」
言われて彼女は、自分が涙を流していることに気づく。意識するとなお悲しさ、寂しさが募って、止めどもなく溢れてくる。隣の部屋に恋しい祖母はいない。棺は邸の中央の広間に安置されているので、肉体に縋りつくこともできなかった。
袂を顔に押し当ててすすり泣く瑶子。その肩を抱きながら、父も頻りに目を拭う。二人はそうして暫く、弥栄を悼んで泣いていた。彼らだけだったに違いない。厳格な女当主としてではなく、情あるひとりの人間として故人を偲んだ者は……。
次期当主には、弥栄の遺言により、次男の利男が任命された。長男の日出海はこれまで通り、貿易商としての仕事に戻らなければならなくなった。
日出海は、初七日明けには邸を後にするのだが、その時一緒に瑶子を連れていくべきかどうしようか迷っていた。その話を父から持ちかけられた時、瑶子はきっぱりとこれを断った。彼女は前々から、富貴家の骨董品を管理できる人間が必要だと考えており、自分がそれになりたいと思っていたのである。
「成程、確かによいところに目をつけたな。利男達には美術の良さなんかまるでわからないだろうから……。しかし、それなら専門家を雇った方がよくはないかね。お前は来月から女学校に入って忙しくなるだろうし」
「女学校に通いながらでもできますわ。休みの日にゆっくりやればいいんですもの。……それに、おばあさまから、家宝の蒔絵の箱を守り通すようくれぐれも頼まれているのですもの」
「そうか。お袋の信頼をそこまで勝ち得ているのなら、お前が管理する方がよいだろうな」
父は朗らかに笑ったが、それが作り笑いであると瑶子は見抜いた。かつての、寂しい夕食時、祖母が見せた陰ある表情によく似ていたので。
娘にそう指摘されると、父の笑顔は苦笑や自嘲のそれに変わっていった。
「ハハハ……お前の目には、敵わんね。本当を言うと、娘のお前と離れるのが寂しいのだよ。外国に行くと、それこそ何年も会えなくなるのだから。……でもお前の言うことも正しいし、ここは父の私が折れるべきだな」
「相済みません、お父様。……ああそうだわ、代わりにこれを差し上げますから、持っていって下さいな」
「え?」
日出海の手に載せられたのは、弥栄が形見として死に際に遺した、お守り袋。彼もこの刺繍入りの巾着には見覚えがあった。亡き母が、先祖の御力がこもっているのだといって、後生大切に懐にしまっていたものである。
「こんな大切なもの、貰えないよ。おばあさんの思いだって、この中に詰まっているのに」
「それなら尚更、お父様がお持ちになるべきです。お父様は、おばあさまを思い出させる何物をも持っていらっしゃらないのですもの。私には、おばあさまと一緒に暮らしたこの家と、骨董品がございます。ですから、どうぞ」
何度目かの押し問答の後、とうとう日出海が根負けして、お守りを懐中に収めた。瑶子は心から嬉しそうに微笑している。
――初七日の過ぎた後、日出海は予定通り富貴邸を去り、貿易の仕事に戻っていった。一人娘の瑶子をくれぐれもよろしく頼むと、当主になった利男とその妻に言い残して。
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