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 それから数日もしないうちに、父の日出海は、貿易商としての仕事のために長旅に出ることとなった。祖母の弥栄は、なお一層瑶子を陽に陰に庇って、掌中の玉も同然に扱うのだった。美術品の商人が来ない時でも、よく自室に呼び寄せて話をしたり、小学校の勉強を見てやったり、時々は父や、亡き母恋しさを打ち明けるのをじっと聞いてやったり……それが瑶子には、どれほど有難く、心強かったことか。しかしながら、それがために、利男ら一家との溝はますます深くなっていった。


「――なぜお義母様は、あんな野良猫を後生大事にしているのかしら、理解に苦しむわね、全く」


 利男の妻の辰代は、当の義母さえいなければ、どこでもそう愚痴った。時にはこれ聞きよがしに、瑶子の通りがかる所で口にすることもあった。そのうち、娘の若子が母を真似て瑶子を罵るようになったが、母は自らの言動を改めるどころか、流石我が娘はよく理解しているといわんばかりに喜色を表しさえする。……妻子の性格を知り抜いている利男は、見て見ぬふりをしてやり過ごすばかりだった。


 やがて彼ら一家は、夕食も自分達の住まう離れに運ばせるようになる。


 富貴家の全員が顔を合わせる唯一の機会が夕食時だったのだが、それすらも放棄されるという現実。だだっ広い食堂で祖母と二人きり侘しくご飯を食べる日々。こうなったのも皆自分が来たためだと思うと、瑶子の胸は痛む。


「瑶子や、お前は何ひとつ悪くないよ。向こうで勝手に私らを避けているだけじゃないか。元はといえば、向こうが無理を言っておるのがいけないのだから」


 祖母はそう言って瑶子を慰めようとしてくれる。が、瑶子の目は、祖母の表情にどこか陰が射しているのを見逃しはしなかった。祖母だって本当は、次男の家族が心の底では可愛いのである。どんなに相容れない人々でも。


 美術品や古物を愛するが、それ以外には必要以上の贅沢をよしとしない弥栄。


 反対に、骨董品を古臭い、埃臭い、かび臭い、旧時代の遺物だと馬鹿にして憚らず、その代わり最新流行の着物や華美な装飾品に目のない辰代と若子。


 その二者の間を取り持つのが日出海や利男なのだろうが、日出海は頻繁に家を空け、利男は頼りなくて何も言い出せないときている。


 今は祖母を盾にできている自分だけれども、もし祖母がいなくなったら、どうなるのだろう……。


 そんな瑶子の内心の不安を知ってか知らないでか、弥栄はある日、彼女を自室に呼び寄せた。


「瑶子。お前には話しておこうね。うちの一番の家宝のことを」

「まあ。今まで色々見せていただいたものの他に、もっと価値のあるものがおありですの」

「そうだよ。我が富貴家と村の歴史を伝える、何にも代えられぬ宝なのだ」


 しみじみと語りながら、弥栄は棚の奥から黒い箱のようなものを取り出す。それは、菊や桜や、様々な草花を細緻に描いた蒔絵細工で彩られている。


「本当に立派な蒔絵ですね、おばあさま。それに、これほどの大きさで、これだけ隙間なく模様を描いたものは見たことありません」

「やっぱりお前には価値がわかるね。その通り、これは私らのご先祖様が武勲を建て、褒美としてこの辺り一帯の土地とともに賜ったものなのだよ。富貴家が、この辺りの土地の支配者であり、同時に、支配をお任せされたという我らの責任の重さを証明する大切な箱。……この箱の秘密は、代々の当主にしか伝えてはならないとされている」


 瑶子は目を見張って、すぐそこに置かれた蒔絵の箱をじっと凝視した。美しい、絢爛な模様の奥に、この一家の歩んだ道のりが隠れているとでもいうように。


「よいね、瑶子。この箱は本当に、大切なものなのだよ。決して、売ってはならないよ。我が富貴家の手にあってこそ、本当の価値を持つのだよ。わかるかね」

「ええ……何となくですが」

「今はそれでよい。いずれ大きくなれば、婆の言うことがよくわかるようになるから」


 元の場所に箱をしまい、恭しい手付きで引き戸を閉じる。振り返った祖母は、別人のようににこにこしていた。


「さあ瑶子や。今日もまた婆に、楽器を弾いて聞かせておくれな。あのギタラとかいう……」

「ええ、ようございますよ、おばあさま」


 瑶子はいそいそと自分の部屋から、細長い包みを抱えてくる。布を解くと、中からは、木製の三味線のような洋楽器が出てくる。――ギタラ、ギタルラ、ギター等と呼ばれる、この舶来の楽器の音色が、祖母のお気に召したらしい。瑶子が一人で練習しているのを聞きつけて以来、毎日のように演奏を頼んでくるようになった。――瑶子もまた、祖母を喜ばせられるのが嬉しくて、一層練習に精が出た。それにこのギターは、かつて和泉家にいた時、育ての父から贈られた、いわば彼の形見ともいえる品。爪弾いていると、懐かしい和泉氏の顔や、遠く離れている養父の日出海の顔、若くして逝った養母の志津の顔が浮かんで、瑶子の心を慰撫しては去っていった。


 哀調を湛えた音色が、しんみりと客間に満ち満ちる。その音は、中庭を抜けて、離れの一間にも届いた。


「ほほう、変わった音楽ですな。お宅のどなたかがされているんで?」


 宝石商の男は、お得意様のご機嫌を伺うように上目遣いで尋ねる。


「ええ、うちの居候の小娘ですよ。何ですか、あんな陰気なものを奏でられて、いい迷惑ですの」

「はあ、さいですか。でも……」

「あの音を素敵だとかハイカラだとか、褒めるようなこと言いはしないわねえ。あんな貧乏な卑しい子の弾く楽器なんか。ねえ?」


 母の隣に座した少女は、こましゃくれた口を利いて笑みを浮かべる。その目は母の顔を窺いつつ、宝石商を睨めつけている。


「ええ、勿論そんなこと申しませんとも、お嬢様。実に酷いですなあ、あれは、ハハハ……」

「あなたはよくわかって下さいますこと。少なくともうちの姑よりまともな耳をお持ちですよ、ホホホ」

「恐れ入ります」

「で、その耳と同じくらい、まともな宝石を持ってきて下さったのでしょうね」

「ええ、ええ、勿論でございます……」


 宝石商は見るからにホッとして、机の上に品物を並べていった。これは何カラットの何という石、これは何という国から輸入した貴重な何という石……と説明していくと、奥方も令嬢も目を輝かせて見入る。奥方の頭髪には既に、金とダイヤモンドで縁取ったサファイヤの櫛が挿され、指には大粒の猫目石の指輪がはめられている。先程、立ち上がった時には、これまた大粒の瑠璃玉の帯留めがはっきりと見えた。令嬢の方も、珊瑚と真珠のピンを頭に挿し、こちらも一人前に、母親ほどではないがそれなりに大きな、エメラルドの指輪をはめていた。……お客としては有難いが、家族とか友人にはしたくないな。宝石商は内心そう独り言ちて、姿の見えないご亭主に同情した。


 不思議な哀しい音色はいつしか止んでいた。宝石商の耳には、もう、目の前のお得意客がはしゃぐ甲高い声しか響かない。彼は密かに、あの音楽がもう一度奏でられればどんなに心満たされるだろうかと、考えずにはいられなかった。

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