第1章 明眸禍
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瑶子は孤児であった。彼女は日本海沿いの港町に育ったが、そこで生まれたわけではなかった。
彼女が初めに父と呼んだ、古物商の和泉氏は、幼い彼女を膝に抱いてよく聞かせたものである。
「昔、大きい船が嵐に遭って、沈没してしもうてな。乗船客はみんな海に投げ出され、或いは自ら海に飛び込んだ。そのうちの何十人かが、すぐそこの浜に打ち上げられた。わしも含めて、ここらの住人らはみんな救助に向かった。幸い、助けたうちの3分の2は後に息を吹き返したが、残りの3分の1は、残念なことに、既に仏様になっておってなあ。本当に可哀想に……。その時、波間を大きな舶来のトランクが漂ってくるのが見えた。それに掴まる人の姿も見えたので、わしらは急いで引き上げた。助け上げたその方は、まだうら若い、身なりの整った美しい奥様でなあ。絶えそうな息の下から、こう英語でおっしゃるのだ。『私の子がこのトランクにいます』。……慌てて中を覗くと、たくさんの着物にくるまれるようにして、玉のような女の子の赤ん坊がすやすやと眠っておった。それが、お前だったのだ」
和泉氏は早くも涙ぐんでいる。
「奥様――お前のお母様だ――は、その夜にお隠れになった。お前を胸に抱いたままで……。結局、あの方はご自分のこともお前のことも話さずじまいで逝ってしまわれたが、お前の名に『瑶』がつくのはわかった。着せられていた着物の内側に、その字が刺繍されていたからね。それでわしが、『瑶子』という名を新たに付けたわけだ」
「けれど、お父様。私の本当のお母様が何者なのかは、一緒の船に乗っていて助かった人から聞けなかったの?」
幼い頃にはただ「可哀想なお母様!」とのみ思い、無邪気な心で亡き人の冥福を祈るだけだった瑶子も、成長すると様々な疑問を抱くようになった。和泉氏はそんな娘を、愛情のこもった眼差しで見つめ、微笑する。
「お前も賢くおなりだね。そう、あの時わしも、救助された人々に尋ねてみたのだよ。……だが、彼らは申し合わせたように口を噤むのだ。恐らくは、相当の家柄の一家と使用人達で、何か名誉に関わることがあって、海の外に逃げる必要があったのだろうと思う。……身なりと言葉からして、大陸の貴族らしかったがね」
「お父様は、何か名誉を汚したかもしれない人々を、その子供の私を、蔑んでいらっしゃいますか」
「何を言うのか、瑶子!」
和泉氏は初めて声を荒げた。が、瑶子は、美しい黒眸をちらとも動かさない。――やがて相手も折れて、感心混じりに答える。
「成程、わかっておって聞くのだな。それなら答えるが、わしは、あの人々を悪人どもの集まりとは思うとらんよ。仮に悪いことを誰かがしていたとしても、それでわしらに害が及んだわけではない。彼らを責める資格を有するのは、悪事の被害を受けた者だけだ。わしらにとっては、ただ浜に流れ着いてきた哀れな人々、それだけだ。――特にお前のお母様は、実に気高く、死に瀕しても愛と誇りを失わない、ご立派な方だった。その娘たるお前を引き取ってこうしてお育てできる。こんなに光栄なことはないではないか。今ではお前は、わしの一番の誇りであり、一番の自慢の種だよ。ハッハッハ」
娘の瞳から喜びの涙が溢れるのを見て、彼はわざと明るく、力強く言ってやった。娘も涙を拭い拭い、にっこりと笑ってみせる。
「さあ瑶子や、これからお客さんが来られるよ。お前も一緒に見るかい」
「はい、お父様」
和泉氏が古物商であることは先に述べたが、彼の古今東西の美術品を見る目は確かで、その知識も豊富であった。彼の折紙付きとなれば、どこでも一級の宝として扱われた。それゆえ、彼の認めた品を買いたいという富豪やら、家宝を売りたいという一家の長やらが全国からやって来るのだ。瑶子も、彼の隣に座して、訪問客とともに品物を眺めて過ごすのが好きだった。そうして、楽しみながら美術を見る目を養っていった。
父娘が殊に心待ちにしていたのは、毎年秋に、遠路遥々やって来るお得意様だった。富貴日出海と志津という、裕福な夫妻で、商人と客の関係ながら和泉氏とは深い友情に結ばれていた。
今年も、2人が訪れる日になると、瑶子は小学校から飛ぶように駆けて帰り、懐かしい「おじさま」「おばさま」に挨拶をした。
夫妻はこの後一週間ほど、この家に滞在する。和泉氏以外に身寄りのない瑶子にとって、夫妻は親類のように甘えることのできる、数少ない人々だった。夫妻もまた子供がいなかったので、親友の娘を我が子同様に慈しんだ。――和泉氏と富貴氏が、古美術や貿易の話をしている間、瑶子と夫人とは別室で積もる話に興じていた。生みの母を亡くした瑶子には、優しく淑やかな富貴夫人が特に慕わしく思われる。それゆえだろうか、夫人にはどんなことも、話すつもりのなかったことまで素直に打ち明けることができた。小学校での出来事から、最近読んだ面白い本のこと、家に度々来る美しい宝物のこと、自分の出生にまつわることまでも……。夫人はそれらのひとつひとつを微笑しつつ真剣に聞いてくれる。……やがて、話を終えた和泉氏と富貴氏が2人を客間か食堂に呼び、そこで全員揃って御飯をいただくのが、楽しい一日の締め括りとなった。
そうして、夢のような一週間は瞬く間に過ぎ去った。彼らは来年の再会を約して別離の言葉を交わし合った、のだが。
それが永の別れとなるとは、一体誰が想像し得たであろう!
翌年、富貴夫妻は同じように、和泉氏の邸宅を訪れた。しかし出迎えたのは主人の和泉氏にあらずして、娘の瑶子である。それも、ひどく憔悴した様子だ。理由を聞くと、父の和泉氏が一週間ほど前に亡くなったのだという……。
「なぜ早く知らせなかったのかね、瑶子!」
「知らせましたわ、でも、行き違いになっちゃったみたいで……」
「お葬式とかはもう済ませたのかい」
「ええ、大方は」
瑶子は、白い喪服の袂を握って、気丈に受け答えしていたが、ふいに堰を切ったように泣き出した。富貴氏は、幼い娘のことを夫人に託し、自らは邸内外の大人達に詳しい事情を聞きに回った。――一週間程前の昼頃。突然の心臓発作で和泉氏は床に就いた。彼は、報せを受けて学校を早退してきた瑶子の顔を一目見ることも叶わず、息を引き取った。唯一人の育ての親を亡くした瑶子の悲哀は、想像するに余りある。
しかし彼女は、自分が喪主であり、自分をおいて父を葬る者はないのだと知っていた。周囲の大人の助けを借りつつも、彼女はほぼ独力で必要な儀式や手続きを執り行ったのである。それだからこそ、あの憔悴し切った様子になってしまったのだろうと富貴氏は胸が痛んだ。
そしてなお哀れなことには、瑶子は二度までも、天涯孤独の身に落ち込んでしまったのである。
とつおいつ考えながらぶらぶらと離れに向かっていると、俄かに辺りが騒がしくなった。聞けば、瑶子が高熱で倒れたので、介抱したり医者を呼んだりと、てんてこ舞いらしい。急いで妻と瑶子の待つ室に行く。
「あなた、今いらしたんですか。瑶子ちゃんが――」
「ああ、既に聞いているよ。この一週間の疲れが出たのだろう」
「私もそうだと思いますの。可哀想に、ずっと気負ってきて、私達に会ってふっと緊張の糸が解けたんでしょうね」
感じやすい妻は涙ぐんで、傍らの布団に横たえられた瑶子を見やった。黒々した髪には艶がなく、青白い頬はかさかさに乾いて、僅か十歳の少女とは思われぬほど疲れ、老いて見える。
夫妻はどちらから言うとなく、瑶子を引き取って育てていこうと決心した。
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