明眸と紅唇
香月文恵
プロローグ いざ逃亡
たなびく雲が薔薇色に染まって、朝の訪れを告げる。無蓋の自動車に乗る2人には、その絶景が何の遮るものもなく眺められた。時々頭上に樹木の枝が差し伸べられるくらいだった。
夜通し山道を運転してきた紗百合は、思わず「まア、綺麗な朝焼け!」と声を上げた。
「エ、朝焼けですって? もうそんな時間なのね」
助手席に座る瑶子も、その美しい黒眸を瞬く。
「ええ。ちょっと降りて、身体を伸ばしましょうよ」
言うなり紗百合は、自動車を停止させてさっさと降り立ってしまう。瑶子も倣って、扉の把手に手をかける。
2人は昨夜逃亡してきたままの、夜会用の服をまとっていた。紗百合がふわりと裾の広がったドレスで、瑶子が絹の和服。――他には人っ子ひとりいない山腹の道。左手には鬱蒼とした森が広がり、右手は柵すらもない断崖絶壁。まず間違っても、夜会行きのお嬢さんが来るはずのない場所なのである。
「あー、気持ちいいこと! 瑶子もいらっしゃいよ、そりゃ壮快な眺めなんだから」
「紗百合! 身を乗り出さないでちょうだいな、冷や冷やするわ」
「ちぇ、つまんない」
断崖絶壁の下を覗き込んではしゃいでいた紗百合は、不平そうに口を尖らせながらも言う通りにした。ふっくらと柔らかそうな紅い唇は、すぼめるとなおのこと愛らしい。
と、彼女は崖の下をもう一度振り返って目を凝らす。遥か下の道……自分達は数十分前に通過した山麓の道を、小さな黒いものが滑っていく。
「どうしたの、あんまり下を見ちゃ嫌よ」
「違うってば。――ほら、あの下の道を見て。車が一台走ってくるわ」
「車くらい珍しくないでしょうに」
「そりゃ、人里近い所ならね。でもここは人家どころか人すら滅多に見つからない山道なのよ。それをあんな大急ぎでこちらに向かってくるってことは」
「つまり……私達を追ってきたってこと?」
「ええ。ほら急いで車からトランクと、あんたの荷物を出して。私達はこの森の中を歩いて逃げるの」
「まあ、あなたの車は?」
「片付ける」
(片付けるって……?)
何が何だか呑み込めぬまま、瑶子は自分のギターと、紗百合のトランクや上着類を後部座席から引きずり降ろす。その間に紗百合は、車のエンジンを入れ、元通り運転席に座る。
「瑶子、離れていてね。じゃ、行ってくるから」
「紗百合、危ないことは――」
しちゃいけない、と言いかけた時にはもう、自動車は急発進していた。猛烈な排気音と煙が山の空気を掻き乱す。……進行方向を見ると、紗百合は走る自動車で頻りにバランスを取りながら、座席の上に立ち上がったところである。
「やめて、紗百合ッ!」
恐ろしさに目を覆う瑶子。遠くで微かにヤッというかけ声と――破れ鐘以上の大轟音が耳をつんざく。
「……瑶子、無事『片付けて』きたわよ。ああ、面白かった」
当の紗百合は大得意だった。――太い木の枝が頭上に差しかかる時を見計らい、走る自動車から跳び上がる。枝を掴んでぶら下がると、運転手を失った車はよろよろと道を外れて、断崖絶壁を転げ落ち……。
「紗百合ったら、危ないことしないで!」
枝から手を離して地面に降り立った時。瑶子が向こうから、全ての荷物を持って、息せき切って駆けてきた。その面は怒りに満ちていたが、澄んだ漆黒の瞳は、紛れもない友への愛に輝いている。……この明眸には、何人も敵わない。
「堪忍、堪忍。もう決して無茶はしないことよ、誓ってもいいわ」
「本当?」
「暫くは、本当ね。何日かしたら嘘になるかもしれないけどね」
可愛い唇で悪戯っぽく言ってのけられると、こちらの怒る気力も削がれてしまう。……この紅唇には、何人も敵わない。
「ほら、ご覧なさい。あの下の道を。さっきの車が引き返していくじゃない。これで追っかけっこする心配はないわよ」
確かに、麓の道を走っていた謎の自動車は、先とは向きを転じて、町の方へとひた走っていく……。
「あの壊れぶりなら誰も、私達が生きているとは考えないだろうし、安心して旅ができるってわけ。これからは、そうね、この森の中をひたすら突き進むと5時間ほどで向こう側の集落に出られるの。とりあえず、そこを目指すわよ」
一晩中運転していたとは思えない元気さで、紗百合は自分のトランクを携えてにっこり笑った。そうして、自ら先に立ってずんずん歩いていってしまう。
瑶子も、布に包んだギターを抱え直して、その後を追いかけた。
2人の乙女が入っていった森は、一応、人間が通れるように道を作ってあった。途中猛獣か珍獣にでも出会わない限りは、進み続けられるだろう。
「ただこうしているのも退屈ね。歩きながら、お互いの身の上話でもしない? 私達、出会ってから必要最低限のことしか知り合っていないわ」
紗百合はそう言って、相手を見やる。相手もまた、うなずく。
「ええ、そうね」
「初めはあなたから話してよ」
「ええ」
瑶子は逡巡するように黙っていたが、やがてその重い口を開いた。――
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