君。
@12114
君。
第一章 ふたりの日々
匠と唯は、ごく普通の高校生活を送っていた。ふたりは高1の春、同じクラスになってからすぐに仲良くなり、自然と付き合うようになった。匠はやや不器用な性格で、感情表現が下手だったが、唯はそんな匠の手を引くようにして、いつも笑っていた。
放課後、ふたりで歩く帰り道。コンビニに立ち寄って、アイスを一本買い、じゃんけんで勝ったほうが先に食べる。唯が勝つと嬉しそうに笑い、負けた匠に「一口あげるよ」と優しく差し出す。
そんな日々が、永遠に続くと信じていた。匠にとって、唯は世界の全てだった。
第二章 違和感
唯の様子が少しずつ変わったのは、初夏の風が心地よくなってきた頃だった。ある日、匠が教室に入ると、唯が窓際でスマホを握りしめ、顔を青ざめさせていた。匠が声をかけると、無理やり笑顔を作って「ちょっと寝不足なだけ」と答えた。
その日を境に、唯はどこか怯えたような表情を見せることが増えた。後ろを気にしたり、誰かからの電話に怯えたり。匠は不安になったが、唯は「気のせいだよ」とだけ言い、匠の問いを避け続けた。
第三章 消えた彼女
梅雨が始まったある朝、唯が学校に来なかった。スマホにメッセージを送っても既読はつかず、電話もつながらない。匠は授業中も落ち着かず、放課後には唯の家を訪ねた。
インターホンに出たのは唯の母親だった。疲れ切った顔で、「昨日の夜から帰ってきてないの」と告げる。警察に届け出たというが、まだ捜索は本格化していないという。
「何か心当たりはある?」と母親に聞かれた匠は、胸の中に言い知れぬ不安を抱えたまま、首を横に振った。
第四章 監視の視線
それから三日後、匠の家のポストに茶封筒が入っていた。中にはメモ用紙とUSBメモリが入っていた。メモにはただ一言、「見ることが、お前の義務だ」とだけ書かれていた。
PCに差し込むと、そこに映っていたのは、コンクリートの壁に囲まれた狭い部屋。唯が手足を拘束され、目隠しをされ、誰かに殴られている映像だった。音声はなく、ただ映像だけが淡々と流れていた。
匠は震える手でPCを閉じた。その夜、吐くほど泣いた。
第五章 監禁の日々
翌日もまた、USBが届いた。中には昨日よりも酷く傷ついた唯が映っていた。声が出せるようになっていたが、何を言っているかは聞き取れない。犯人の顔は映っていなかったが、誰かが唯を弄ぶように笑っていた。
それ以降、USBは毎日のように届いた。警察に相談したが、「証拠能力が不十分」「偽装映像の可能性がある」として、すぐには動けないという返事だった。
匠は無力さに打ちひしがれながらも、毎日USBを再生し続けた。
第六章 助けられない
匠は独自に唯の行方を探そうと決意した。SNSの投稿履歴、通学路、防犯カメラの映像提供依頼、同級生への聞き込み。しかし、どこからも有力な情報は得られなかった。
その間も、唯の映像は毎日のように送りつけられた。画面の中の彼女は日に日にやつれていき、かつての明るさは見る影もなかった。匠は泣きながら、その姿を見続けるしかなかった。
「俺が、守れなかった……」
第七章 唯の声
届いた映像の中で、唯が初めてカメラに向かって話した。
「匠……見てる? お願い、もう見ないで……こんな姿……見ないで……でも……でも、あなたの声が聞きたい……寂しいよ……」
それは弱々しく、震えていた。匠の心は、音を立てて崩れていった。
第八章 記録された地獄
匠は全てのUSBをPCに保存し、唯の情報を何か掴もうと何度も再生した。背景の音、部屋の壁、映り込んだ家具、犯人の影……どれも手がかりにはならなかった。
一方で、映像はエスカレートしていった。唯が拒絶しても犯人はそれを無視し、身体的にも精神的にも彼女を追い詰めていく。
匠は画面の前で拳を握り締め、泣きながら叫んだ。
「誰か……誰か助けてくれよ……!!」
だが、その声は誰にも届かなかった。
第九章 崩れる心
匠は食事を取らなくなり、学校にも行かなくなった。周囲の人間も彼を避け始め、家族との会話も消えた。部屋に閉じこもり、唯の映像を再生し続けるだけの毎日。
日に日に痩せ細り、顔色も悪くなっていく中で、匠は何度も思った。「俺もいなくなれば楽になれるかもしれない」
だが、唯を見捨てることだけはできなかった。生きて、見続けること。それだけが、今の自分にできる唯一の“罰”だと信じていた。
第十章 唯一の手紙
ある日、USBとは別に、封筒が届いた。中には、唯の手書きの手紙が入っていた。
「匠へ
あなたに出会えて、ほんとうによかった。 でも、私はもう限界です。
苦しい、痛い、怖い。何もかもが壊れてしまいそう。
でも、あなたの顔を思い出すだけで、少しだけ、心があたたかくなります。
だから最後に、ちゃんと伝えさせて。
大好きでした。
さようなら。
唯。
第十一章 最後の映像
その日のUSBには、ただ一本の映像ファイルが入っていた。
唯は薄いシャツ一枚を身にまとい、床に座っていた。頬はこけ、瞳は虚ろだった。手元には薬のシートがいくつも転がっている。
「匠……これが最後だよ」
そう言って、唯は一粒ずつ薬を口に含み、ためらいなく水で飲み下していった。その表情には、悲しみも恐怖もなかった。ただ、静かな決意だけがあった。
「あなたのこと、本当に大好きだった……。今度は、夢の中で会おうね」
唯が最後に見せたのは、微かな笑顔だった。
画面が真っ暗になったあと、匠はしばらくPCの前で動けなかった。喉の奥が焼けるように熱く、涙が止まらなかった。
「嘘だろ……唯……」
現実を受け止められず、匠は何度も頭を抱え、嗚咽を漏らした。
第十二章 終わった命
数日後、唯の遺体が廃工場跡地で発見された。身元の確認が取れたという連絡が、警察から唯の母へ届いた。ニュースにはならず、報道もされなかった。ただひっそりと、ひとつの命が終わっただけだった。
匠は警察署で唯の遺品を受け取った。そこには、あのUSBメモリと、小さなブレスレットが入っていた。匠がプレゼントしたもので、彼女は最後まで外さなかったらしい。
手に取ると、ブレスレットが微かに揺れた。その音が、匠の胸を貫いた。
第十三章 後を追って
唯の葬儀は、ごく小さなものだった。匠は棺の中の彼女の姿を見つめ、手を伸ばしたかったが、それは叶わなかった。
「ごめんな、守れなくて……」
匠はそれから数日、部屋に閉じこもった。そしてある夜、唯の遺影を前に、机の引き出しからロープを取り出した。
「俺も……行くよ」
梁にロープを結び、椅子に立ち、深く息を吐いた。そして、目を閉じて椅子を蹴った。
第十四章 息を吹き返す
目が覚めたのは、白い天井の下だった。
病室のベッドに寝かされていた匠は、ぼんやりと天井を見つめた。声が聞こえた。「よかった、目が覚めた……!」母親の泣き声だった。
匠は首に包帯を巻かれ、手には点滴が繋がれていた。医者の説明によれば、発見が早かったため一命を取り留めたという。意識不明のまま数日過ごしていたようだった。
だが、匠は混乱していた。
「……誰?俺……どこ?」
第十五章 空白
匠は名前以外のすべてを忘れていた。家族の顔も、友人の名前も、学校のことも、そして唯のことも。
記憶障害。首を吊った際、脳への酸素供給が一時的に止まり、記憶を保持していた領域にダメージが残ったのだという。
母親は泣きながら匠に語った。「唯ちゃんのこと……覚えてないのね……」
匠は「ごめん……」と小さくつぶやくだけだった。
心の奥に、ぽっかりと穴が空いていた。何か大切なものを失ったという実感だけが、妙に生々しく残っていた。
第十六章 病室の窓
退院までは数週間かかった。その間、匠はリハビリを受けながら、記憶の断片を辿ろうとしたが、何も思い出せなかった。
病室の窓辺に、小さな写真立てが置かれていた。中には、高校生の匠と、見知らぬ少女が並んで笑っている写真。
「この子……誰だろう」
母は「唯ちゃんよ」と答えたが、匠はピンとこなかった。ただ、写真を見ていると、胸の奥がじんわりと熱くなる。
まるで、見えない記憶が心を揺さぶるようだった。
第十七章 白紙のアルバム
退院して数日後、匠は自室の棚を整理していて、一冊のアルバムを見つけた。それは、かつて唯と過ごした日々を収めたものだった。
ページを開くたびに、笑顔の少女と並ぶ自分の姿があった。桜の下でのツーショット、遊園地でのおそろいの帽子、文化祭での一枚。どの写真も、匠の知らないはずの“思い出”で満ちていた。
けれど、どこか懐かしい。心のどこかが、確かにその時間を知っていると訴えていた。
「この子……唯……」
名前だけは、口にしてみても、ピンとこなかった。ただ、ページをめくるたびに、胸が締め付けられるように痛んだ。
第十八章 涙の理由
ある夜、匠はアルバムを抱えてベッドに横たわり、何度も何度も写真を見返していた。
何かを思い出したい。どうして忘れてしまったのか、自分がどんな人生を送ってきたのか、それを知りたい。
そんな中、一枚の写真に目が止まった。唯が、匠に寄りかかるようにして笑っている。匠は少し照れたように視線を外している。
その瞬間、ぽたりと涙が頬を伝った。
「……どうして……涙が出るんだ……」
わからない。けれど、涙は止まらなかった。嗚咽がこみ上げ、匠は胸を押さえて泣き続けた。
何も思い出せないのに、こんなにも悲しい。こんなにも苦しい。
第十九章 遺された記憶
翌朝、匠はアルバムの裏表紙をふと見た。そこには、ボールペンで書かれた走り書きがあった。
「たくみへ だいすきだよ ゆい」
その文字を指でなぞった瞬間、匠の心の奥に、何かが強く響いた。脳ではなく、心がその言葉を覚えていた。
“ゆい”。
どこかで、何度も呼んだ気がする名前。
どこかで、何度も笑ってくれた名前。
匠は小さくつぶやいた。「……ゆい……」
その名を呼んだとき、また涙が溢れてきた。名前も、思い出もないのに。けれど、確かにそこには、愛があった。
第二十章 忘れたくなかった
数日後、匠は母に連れられて、とある墓地を訪れた。小さな墓石の前に、「田辺唯」という名前が彫られていた。
母が小さく言った。「あなたが、大切にしていた人よ」
匠は何も言えず、墓前に花を供えた。そして、その場にしゃがみ込み、じっと墓石を見つめた。
記憶は戻らなかった。けれど、心が何かを訴えていた。
風が吹いた。静かな風だった。空は晴れ、雲ひとつなかった。
匠はそっと目を閉じた。まぶたの裏に、知らないはずの笑顔が浮かんだ。暖かくて、切なくて、そして、愛おしい笑顔。
「……会ったこと、ある気がする。すごく……大切な人だった気がするんだ」
忘れてしまっても、心は覚えている。
忘れたくなかった——たとえ名前が思い出せなくても、たとえ顔が浮かばなくても、その想いだけは、生涯離れない。
匠の頬を、静かに涙が伝った。
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