高木譲司のパンヤクザ道

轟益子

その男、パンヤクザ

 仮想都市、主食区しゅしょく――。

 午前3時。日が昇る前の深夜とも早朝とも言えないこの時間。スマートフォンに設定したアラームが鳴る前に高木譲司は目を覚ます。何年も寝間着に使っている灰色のスエットを脱ぎ、紫の柄シャツのボタンを胸元の下まで止め白いジャケットを羽織り自室を後にする。事務所へ向かう道すがら煙草を咥えZIPPOを取り出しそれに火を着け煙を燻らせる。『製粉町商店街』と書かれた大きなネオンの門を潜り抜け営業が終了したのであろうキャバクラ店やホストクラブの消灯した看板たちを脇目に事務所へとゆったりとした足取りで向かって行く。譲司の視界に郡山組の事務所が入るとシャッターが降りた入口の前に一人の坊主頭のチンピラと大きな荷物。譲司は咥えていた煙草を右手に持ちその手をチンピラに向けてひらひらと上げた。


 「お疲れ様です。兄貴。」


 チンピラは譲司の姿を見るなり足を肩幅に広げ膝に手を付き譲司に頭を下げ挨拶をした。


 「マサ、ブツの確認は?」

 「へい。こちらに。数の確認もできています。」

 

 譲司は挨拶もほどほどにチンピラ、舎弟の野島正雄に尋ね正雄の足元に置かれた荷物に覆い被さったビニールを捲り中身の確認をする。大袋の間に挟まっている納品書を取り出し、白い粉が入った袋や段ボールに入った荷物の個数を入念に確認をして頭を下げたままでいる正雄に黙って納品書を渡した。咥えていた煙草を地面に落とし火を消し譲司はスーツのポケットを探り鍵束を取り出す。入口横にある鍵穴へそのうちの1つを刺し込みシャッターを上げる。半分まで上がったところで譲司は事務所の中へシャッターを潜るように入っていった。事務所の中の電気をひとつまたひとつ明かりをつけていき迷うことなくある一室に足を踏み入れた。ジャケットを脱ぎ、白い作業着を身に着け頭に三角巾を被せる。そうしているうちに組員たちが「兄貴、おはようございます。」と表に置いてあった荷物を抱えて事務所に入ってくる。業務用石鹼で手を洗いアルコール消毒を済ませた譲司は事務の奥へ向かう。大きなステンレスでできた扉を抜けるとそこには大きな業務用冷蔵庫に食材を詰める舎弟たちの姿があった。譲司はそれを横目に作業台の前に立つ。


 「さて、今日も稼業しのぎを始めようか。」


 これは仮想都市に存在するパン屋ヤクザ、通称パンヤクザの仁義なきパンを巡る物語――。


 大きなボウルに白いこむぎこを振るい入れ、卵やイースト菌等を順番に入れていく。譲司は室温計を見て生地に入れる水分量を頭の中で考え舎弟たちに伝える。準備が整ったボウルから攪拌機にセットをして材料を混ぜ合わせる。その間に次の生地や中に混ぜ込む具材の準備を始める。舎弟たちが予め切った野菜や果物はどれも大きさなど切りそろえられている。実りの秋とは言ったものでこの季節は目玉商品がくるくると変わっていく。舎弟たちの作業の進みを見つつ譲司は撹拌機から生地を取り出し作業台に乗せたそれに力を込めて捏ねていく。

『手捏ねの譲司』この世界で生きることとなった譲司が名を轟かせたときに誰かが付けた通り名だ。その手から織りなす生地を捏ねる様は鮮やかで力強く生地に粘り気をもたらす。そうして生地を捏ね終えたら発酵させその間に他の生地を捏ねる。譲司はこの時間が好きだった。目の前にある生地に向き合い集中できるからこそ自分自身と向き合うことができていると感じるからだ。一次発酵、二次発酵と工程は進み成形へ取り掛かる。生地を切り分けひとつひとつ計りに載せ等分してゆく。そこから形を整え余熱した業務用オーブンの中へ入れ焼き上げる。


 「おはようございます!」

 

 最初のパンが焼き上がる頃、売り子の多田美緒が事務所に顔を出した。


 「おはよう。美緒ちゃん。」


 譲司や舎弟たちは作業の手を止めず、美緒に短く返事を返す。エプロンと三角巾を身に着けた美緒は焼き上がったパンを天板からトレーに載せ替え作業場から店頭へ持っていく。作業場の小窓から店頭を見れば美緒がパンを丁寧に並べ、焼きたてと書かれたプレートを値札の横に添えていた。譲司と構成員たちが焼き上げたパンを美緒が店頭へ運んでいきそれを数回繰り返すと時計の針は午前9時を指していた。美緒が店頭のプレートを営業中にひっくり返すと数人ばらばらと客が入り始めた。譲司は作業を構成員に任せ作業着を脱ぎ、裏口から外へ出た。裏口で煙草を取り出し煙を一息吐く。上る煙を目で追いかけ今日の稼業しのぎを確認する。事務所からは「フランスパン焼きたてです!」と美緒の元気の良い声とパンの焼ける香ばしい香りがこちらまで感じられる。そんな活気の良い声を背に譲司は事務所を後にした。


 この製粉町商店街は昼の顔と夜の顔を持つ。昼は活気のある商店街。通りには八百屋や魚屋。所謂、カタギと呼ばれる人間たちが。夜は一転してキャバクラやホストクラブなど夜の店が活気付く。そんな二つの顔を持つ商店街は指定製パン組織、海崎製パン会のシマだ。その一角に譲司の所属する海崎系郡山組の事務は存在する。海崎会は主食区しゅしょく地域では巨大勢力であり製パン業を始めとした稼業がある。高木譲司は郡山組の舎弟頭として舎弟たちをまとめ上げパンヤクザとしてパンを捏ねている。主食区しゅしょくは政令製粉都市とされ製パンや製菓など食品製造業に厳しく独自の法律を設け取り締まっている。しかし、多額の納税義務や材料の仕入れ先から製品の卸先、イートインに至るまで厳しく取り締まるため庶民は主食にありつくには苦労をしていた。そんな庶民たちに目を付け、政府から反旗を翻しパン屋を営み、庶民たちに主食をもたらしたのが指定製パン組織の始まりである。指定製パン組織は政府の敵対組織として商いを続けていたがやがて様々な派閥が発足。お互いのシマを持ち抗争を繰り広げるようになり現在、海崎パン会はこの地域で一大勢力として君臨している大規模な組織だ。

 

 公園のベンチに座り次の仕込みの段取りを考えている譲司の胸ポケットから音が鳴った。譲司はスマートフォンを取り出し画面を見ると『新藤太一』と表示されていた。新藤は郡山組組長、郡山竜之進の秘書だ。譲司は通話ボタンを叩き、スマートフォンを耳に当てた。


 「高木です。」

 「高木さん。お疲れ様です。新藤です。」


 お互い簡単な挨拶もそこそこに新藤は言葉を続けた。


 「郡山組長が高木さんへ用があると。15時に事務所2階へ。」


 そうして「失礼します。」と電話は切れた。スマートフォンに表示されている時間は午前10時前だった。もうすぐ次の仕込みの時間だ。譲司は肩を回し作業場へと戻っていくのだった。


 「高木の兄貴。お帰りなさい。」

 「おう。」

 「生地、具材の仕込みは上々です。」


 構成員たちが作業場へ戻った譲司を迎えた。どうやら生地の攪拌、具材の下ごしらえまで済ませているようだった。それらをひとつひとつ確認をして構成員達へ指示を出す。すると昼休憩に入るのだろう美緒が作業場へ顔を出した。


 「お帰りなさい。高木さん。」

 「ただいま。美緒ちゃん。今から休憩か。」

 「ええ。この時間に高木さんのパンが食べられるのいつも楽しみにしているのよ。」


 美緒は嬉しそうな顔をして皿に乗せたあんぱんとカレーパンを高木の目の前に出した。自分が焼いたパンを他人が喜んで食べる姿を見て心が温かくなる気持ちを知ったのもこの世界に拾われてからだ。譲司は頷いて早く休憩に入るように美緒を促した。その後ろ姿を見送り譲司は作業へ取り掛かった。郡山との約束は15時。それまでに仕込んだタネを焼き上げなければならない。譲司は深呼吸をして作業台へ向かった。


 生地を捏ね、焼き上がる頃には約束の時間はすぐにやってきた。「あとは任せる。」と正雄と構成員達に告げ作業着を脱ぎジャケットを羽織る。事務所の裏手から階段を上り譲司はドアをノックした。


 「高木です。」

 「入れ。」


 短い返事に促され、ドアに入ると男が大きな窓の外を眺めていた。組長の郡山だ。譲司は静かにドアを閉めデスクの前に向かった。


 「親父。用件とは。」

 「ああ。お前にしか頼めないヤマがあってな。」

 「俺に?何か問題が?」


 こうして郡山が譲司に何か問題事ヤマを任せるのはよくある事だった。しかし、それがただ事じゃないことは郡山の表情を見れば一目瞭然だった。郡山は眉間にいつもより深い皴を寄せ、重い口取りで続きを話した。


 「以前から脱法粉が出回っていることは知っているな。」

 「脱法紛……あの化学調味料まいるどどらっぐのことですか?」

 「そうだ。あれは消費期限を延ばすには良い調味料だが量が過ぎれば人体を蝕む劇薬だ。そいつをこの製粉町商店街内で回してるやつがいる。」


 脱法粉、それは政府公認で開発された甘味料だ。食品の品質を保つために開発されたものであるが多く摂取すると人体は知らず知らずのうちに摂取するのを止めることが難しい代物である。パンヤクザ達はその流通をコントロールし、パンとして流している。郡山の言葉に譲司は苦い表情をした。郡山組のパンは素材にこだわり化学調味料まいるどどらっぐを極力使わないことに定評があったのだ。それが商店街中に出回ってしまえば組の稼業に支障が出ることは想像に難くない。


 「譲司、お前に頼みたいことはブツを流してるやつを見つけ出しケジメをつけさせることだ。」

 「承知いたしました。」


 譲司は静かに頭を下げ郡山に応えた。

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