T線の電車内
電車に乗っていたんです。私、フリーのデザイナーをしているんですけど、その日は初めて会うクライアントとの打ち合わせに向かっていました。
ほら、鉄道会社のMって路線が多いじゃないですか。私は普段C線を使ってるから、T線を使うのは初めてでした。それでびっくりしたんですけど、T線ってお客さん少ないんですねえ。通勤ラッシュからちょっと過ぎた時間とはいえ、シートにぽつぽつしか人が座ってなくて。C線ならこの時間、満員とはいかないけどまず座れないから羨ましくすらありました。ていうか、次引っ越すならT線沿いアリかなーなんてね。
打ち合わせ先は終点の駅だったから、よしここは時間を有効活用しようと資料に目を通し始めたんです。クライアントの情報をちゃんと頭に入れておいて損はないですからね。
で、まあこれが私のよくないクセなんですけどイヤフォンをつけて、好きな芸人さんのラジオを聞きながら資料を読んでました。ふふ、そうなんですよ。せめて音楽とかにしとけばよかったんですけどね、ラジオになっちゃうとそっちに意識がいっちゃってあんまり集中できない。いつも楽しみにしている大喜利のコーナーで、あ、常連のハガキ職人さんまた読まれてるな、みたいな今考えなくていいことに頭が持ってかれちゃう。
しばらくして、ある駅に着きました。お客さんが何人か乗り込んできて、私の横にひとりが座りました。一応資料を見ていたから、足だけ視界に入って、それがグレーのスーツのボトムスだったから、たぶんサラリーマンかな、くらいは意識したのを覚えています。
そうしたら、電車が出るか出ないかくらいのタイミングで横に座った人が咳をし始めたんです。それがねー嫌な咳なんです。分かります? 喉の奥から出てるっていうか、ひゅう、と絞められているような音。イヤフォン越しでも分かりました。絶対、空咳とかじゃなくてどっか悪いんだろうな、みたいな咳です。多分、コロナ全盛期だったら私、もっと過敏に反応してたと思います。
まぁでもそれでいちいち眉をひそめるのもな、と思って、聞いてるラジオの音量だけ上げました。ちょっとうるさかったけど、そこは音楽じゃないから全然我慢できますし。ただまぁ、それでも若干、聞こえてくるんですよね、その咳の音。
もうどんだけ咳き込むの、絶対病院行ったほうがいいって、ていうかちゃんと口ふさいでる?なんて思いながら、咳してるときに顔見るのも嫌味っぽいし、今度こそ資料に集中することにしました。
それから5分くらいかな、それくらい時間が経って。ふと気づいたんです、まだ咳が止まらない。ていうか、この人電車に乗ってからずっと咳しかしてない。そんなことある? 普通どれだけ風邪を引いてたとしても、ちょっとは落ち着くタイミングがあるでしょ。
だから私、ようやくその人のことを見たんです。
そしたらその人、足はまっすぐ前を向いているのに、首だけねじきれるんじゃないかってギリギリまでこっちに向けて。私に向けて、咳をしていたんです。私と目があっても、ずーっと、止めることなく。
それからかな、そのせいだとは思いたくないんですけど。私もう半年くらい咳が止まらないんです。そう、だから暑いのにマスクが手放せないんですよ。
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