三十六話 臨時旗艦、雪風
1943年7月5日、ソロモン諸島クラ湾での夜戦において、日本海軍は思わぬ損失を被った。第三水雷戦隊旗艦・駆逐艦「新月」がアメリカ艦隊の猛攻を受け沈没、秋山輝男少将は戦死、戦隊司令部も壊滅という事態に陥った。
「新月……沈没、か」
ラバウルに帰投したばかりの雪風艦橋で、伊豆涼介少尉は報を聞いて言葉を失った。秋山司令官は雪風が第三水雷戦隊に属していた頃、何度も旗艦を務めた尊敬すべき人物だった。その人が、艦ごと沈んだという。
「第三水雷戦隊、再建までの間、我が艦が旗艦となる。八艦隊指揮下、臨時増援部隊指揮官・鳥海艦長、有賀大佐の指揮を仰ぐ」
艦長・島居大佐の言葉に、艦内が一瞬沈黙する。
「つまり、雪風が……第八艦隊の旗艦に?」
驚きの声がもれた。駆逐艦が一時とはいえ艦隊旗艦を務めることなど、極めて異例だった。
「その通りだ。われわれが艦隊中枢となる。……気を引き締めろ」
島居艦長の言葉に、艦内の空気が引き締まった。
7月6日、雪風は旗艦鳥海と共に出撃した。有賀大佐は冷静で理知的な人物として知られていたが、雪風に将旗を仮掲したのは、機動的な指揮を意識したためだと噂された。伊豆は通信室で緊張の中、暗号電文のやりとりに追われた。
7日、川内が到着。新任の第三水雷戦隊司令官・伊集院松治少将が川内に乗艦し、司令部再建が本格化する。雪風はまだ、三日間の臨時旗艦としての役割を負い続けていた。
7月9日、八艦隊長官・鮫島具重中将が鳥海に将旗を掲げ、艦隊は新たな任務に赴く。
「目標、ブイン南方コロンバンガラ島。兵力輸送および支援砲撃を実施せよ」
この日の艦隊は、鳥海、川内、雪風、夕暮、谷風、浜風を含む警戒隊と、皐月、三日月、松風、夕凪などの輸送隊によって構成されていた。
輸送作戦は成功。上陸部隊は無事にコロンバンガラ島へ到着した。だが、米艦隊との水上戦は発生せず、主力との激突は回避された。
「敵艦影なし……しかし油断はできん」
艦橋で監視を続けていた伊豆は、海図に目を落としながら呟く。
「砲撃準備完了です」
「よし、射撃開始。標的、ポリ岬南方の敵集結地!」
夕暮と並走しながら、雪風の主砲が吼えた。ポリ岬に布陣したと見られる米軍拠点に向け、艦砲射撃が開始された。
砲撃の衝撃が艦を震わせるたびに、伊豆の心も揺れた。この砲撃がどれだけの効果をもたらすかは分からない。それでも、上陸部隊の助けになるならと信じて、伊豆は士官としての任を全うした。
夜、雪風は再びブインに帰投する。
艦橋から見上げた星空に、伊豆は静かに呟いた。
「秋山司令官……われわれは、まだ終わっちゃいません。必ず、任務を完遂します」
彼の言葉は、空に消えることなく、雪風の甲板に残り続けた。
そして、雪風は再び次なる戦場へと向かう準備を整えていた。
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