第十二話「束の間の春」
――横浜の空に龍が舞う
1942年5月7日
神奈川県・鶴見
春の風が、潮の香りと混じって伊豆家の軒先をくすぐる。
紺の国防服に身を包んだ涼介は、庭先の木瓜の花を眺めていた。
三日間の特別休暇――戦地から戻った将校に与えられた、ほんの一瞬の自由だ。
「お兄ちゃん、由紀さん来たよ!」
玄関口から妹の澪が声をあげる。
振り向くと、宮内由紀が淡い桜色のワンピースで立っていた。
「……ようこそ」
「おかえりなさい、涼介さん」
微笑み合いながら、二人は言葉少なに並んで歩き出す。
**
目的地は、横浜中華街。
子どもの頃、家族に連れられて一度だけ行ったことがあるという涼介に、由紀が「今度は二人で行きましょ」と言っていた約束の場所だった。
関帝廟通りの賑わいを抜け、春節の飾りがまだ残る店々を眺めながら、二人は手をつなぎ歩く。
「こんなに明るい場所、久しぶりです」
涼介が言うと、由紀がふっと笑った。
「あなたの顔が……戦地で人を殺す顔には見えないわ」
「それでも……してきたよ。必要だった。だけど、こうして笑ってると、どこか夢みたいだ」
「夢でもいいじゃない。少しの間だけでも」
**
聘珍樓の軒先で甘栗を買い、二人で分け合いながら山下公園へ向かう。
海を望むベンチに座ると、沖をゆく貨物船の汽笛が聞こえてくる。
「今度の出撃、いつなの?」
「まだ通達はない。だけど、近い」
由紀は膝の上で手を組み、少し視線を落とす。
「私……もう覚悟はできてるの。戦争が終わるまで、あなたが戻らない覚悟。でも、お願いがあるの」
「何でも言ってくれ」
「次の出撃の前夜、私の部屋に来て。何も言わず、黙って抱きしめて」
涼介の目が静かに細められる。
「……ああ、行く。必ず」
**
夕暮れ、中華街の灯がともり始める。
再び賑わう街角を、涼介と由紀はゆっくりと歩いた。
「涼介さん」
「うん?」
「今、幸せ?」
「……ああ。こんな夜が、もう一度あるとは思わなかった」
二人は立ち止まり、街灯の下で唇を重ねた。
その瞬間だけは、確かに世界が止まっていた。
戦争も、別れも、ただ未来も、何もなかった。
**
夜、涼介はひとり、実家の仏間で軍刀の手入れをしていた。
背後で、床の間の掛け軸が揺れる。
「一日一生」――父が選んだ座右の銘だ。
彼はふと目を閉じ、由紀の手の温もりを思い出した。
明日になれば、また海へ戻る。
だが今夜だけは、ただの人間・伊豆涼介でいられる。
――束の間の春は、やがて過ぎる。
それでも、桜の花は記憶に残るのだ。
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