第十一話「帰還の海路」
赤く染まった海に、黒い艦影がゆっくりと動き出した。
雪風、時津風、鬼怒、そして工作艦・明石。
その明石の巨大な艦体を横目に、涼介は艦橋で帽子を持ち上げ、ぼそっと呟いた。
「……あれが、艦の医者か。道理ででかい」
「治す艦だ。壊すのが俺たちなら、治すのが明石だ」と、機銃長の西田が笑った。
戦地からの復路。戦闘任務ではなく、工作艦を無事に呉へ戻す護衛任務。
だが、油断はできない。
「敵潜水艦、まだこの海域に残ってるらしいぞ。油断すんなよ」と通信士。
雪風のソナーは常に海面下を監視していた。海は静かだが、気は抜けない。
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4月26日
セレベス海南・南緯3度
航海3日目。湿気が艦内にまとわりつき、油と鉄の匂いがいつもより強く感じられた。
兵員食堂では、涼介が無言で飯を口に運んでいた。咀嚼の合間、ふと箸を止める。
「……どうした?食が進まんのは珍しいな」
向かいの古参兵が笑いながら尋ねる。
「いや……このまま呉に帰ったら、またすぐ前線だろ。なにが待ってるんだろうな」
「それを考えるのが一番いかん。今はただ、明石を連れて帰る、それだけだ」
艦のどこかで、鋼板が軋む音がした。緊張が抜けきらぬ船旅――。
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4月29日夜
種子島南方海域
「照明弾、上げろ!」
海面に白い灯りが広がる。
明石が小さくジグザグ航行を始め、雪風と時津風は急旋回で防御隊形を取った。
「潜望鏡影、方位一五〇、距離一〇〇〇!」
艦内に緊張が走る。涼介は操舵室で舵輪を強く握った。
深度の不明な“敵”を前に、わずかな振動にも神経が尖る。
「……ソナー、反応消失しました!」
警報が止むと同時に、艦内に安堵の吐息が漏れる。
見えない敵とのにらみ合い。それでも何も起きない夜が、一番ありがたい。
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1942年4月30日
呉軍港・入港
「見えた……陸だ……!」
誰かが呟いた瞬間、艦上にわずかな歓声が上がった。
故郷の匂いが風に混じる。呉の港湾施設が、じわりと視界に入る。
涼介は帽子を取り、そっと胸に当てた。
この海を越え、生きて戻った。その意味を、まだ問い直すには早かった。
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工作艦・明石、無傷。
雪風、時津風、鬼怒、全艦帰還。
広島湾に降る春雨が、戦場の塵と血を、音もなく洗い流していた。
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