第2話 仮初めの記憶、静寂の狭間で

湿った路地裏に立ち尽くしていたナギは、遠くで鳴る電車の音にふと目を向けた。ガード下をくぐり抜ける風が、記憶の切れ端のように不意に彼の頬を撫でていった。

 目の奥が痛む。さっきまで自分が体験していた“記憶”が、脳のしわに残った錆のようにじくじくと疼いていた。


 ――あれは、誰の記憶だった?


 右手に残った少女の体温。鉄のにおい。突き刺さるような笑い声。そして、最後に見た空の色。

 “記憶”と“現実”の境界が、静かに揺らいでいた。


 「……なんで、あんなものを選んだんだろう」


 口の中で呟いた言葉は、自分自身への問いかけというよりも、自嘲に近かった。あの市場――記憶市場メモリー・バザールには、もっと穏やかで、温かくて、誰にも迷惑をかけない記憶が山ほどあったはずなのに。


 だが、ナギは“あの記憶”に手を伸ばした。それがなぜだったのか、本人にもわからない。ただ、何かに引き寄せられるように。まるで、忘れかけていた痛みを取り戻すかのように。


 「それは、お前の癖だよ、ナギ」


 後ろから声がした。振り返ると、そこには市場で彼に声をかけてきた中年男、記憶仲介人ブローカーのカジが立っていた。スーツの襟元は乱れ、目の下にクマを浮かべていたが、瞳は冴えていた。


 「悲劇を好むやつってのは、どこかで傷をなぞってる。無意識に、自分を罰してんだろうな」


 ナギは黙っていた。図星だったから。

 誰かに見透かされたことが、悔しくて、でも少しだけ楽だった。


 「……あの記憶、返せないのか」


 「無理だ。記憶は“消費財”なんだよ。お前はもう、それを吸ってしまった」


 「吸う、って……」


 「そうだ。あれはただの視聴体験じゃない。細胞に刻まれる。血となり肉となる。だからこそ、値がつくんだ」


 ナギは唇を噛み、視線を逸らした。


 「あの子……泣いてたんだ。誰も助けなかった。誰も、見てさえいなかった」


 「現実だってそうだろ?」


 「……だから、俺は――」


 言葉の先が続かなかった。風が吹き、遠くでサイレンが鳴った。


 「なあ、ナギ。お前、“観る”側でいるつもりか? それとも、“選ぶ”側か?」


 「……選ぶ?」


 カジはポケットから小さな端末を取り出し、ナギに投げた。ナギはそれをキャッチすると、画面に浮かんだ新たなリストを見つめた。


 【記憶No.43A92:臨死体験者のラスト24時間】

 【記憶No.77K11:無言で交わされた1,000日の恋】

 【記憶No.92Z84:生まれたはずだった双子の記憶】


 背筋が凍った。まるで、ナギの内側を覗かれているような選択肢だった。


 「選べよ。次を。お前がここで止まるなら、“観客”のままだ」


 “選ぶ”という行為には、責任が伴う。

 だが、何も選ばず、誰にもならずに終わることの方が、ナギには恐ろしかった。


 画面を指でなぞる。血の匂いがまだ鼻腔に残っていた。


 「……双子の記憶。見せてくれ」


 カジは短く笑った。


 「また痛いやつを選ぶな。だがまあ、お前らしい」


 ナギの目に、再びあの光が宿った。

 それは、ただの若者のものではなかった。

 失った過去と、捨てた未来と、そして今この瞬間の重さを抱きしめるような、覚悟の光だった。


 そして、世界は再び、記憶に染まり始める。

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